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 館山に在る大貫の会社、『バウスピリット』へと向かう車の中では誰も口を開くことはなかった。何かを言えば全てが大貫を犯人だと証拠づける結果を導きそうで、必死に否定の言葉を探すのだが見つける事が出来ない。
 三時を少し回った西の空には、既に力つきる前の最後の輝きを長い波長に乗せた太陽が物憂げに輝き、東の空には存在を忘れられていた昼間の月が、自分の出番をじっと待っている。昼間の月が嫌いだと、大貫は遼に言ったことがあった。日陰者はそのままで居ればいい、他者の力で表に出ようとする姿は見苦しいと……。
 自信家の大貫らしい台詞だと、その時は思った。羨ましくさえあった。恐れるものなど何もなく、全てを思い通りに生きてきた人なのだと思っていた。奥底に、深い闇を抱えているなど想像したこともない。しかし、完全な人間など存在しない事が解り始めた今ならば、あの時の言葉を別の意味で捉えられる。大貫は、恐らく何かに苦しんでいたのだ。
 遼は、窓を少し開けた。髪を乱される事も構わず、冷たい風に拭い去りたいものがあった。もし……の言葉が浮かんでは消え、反芻する疑問に答えを導き出す事が怖い。
(だけど、僕はもう、真実を知る事から決して逃げたりしない)
 優樹が無言で手を重ねた。その温かさが遼に力を与えてくれた。

 『バウスピリット』正面の来客用駐車場に車を止め、神崎は三人と連れだって事務所に向かった。濱田からはもう少しで着くと連絡があったが、事情を聞くだけならば待つこともないと思ったからだ。事務所に大貫の姿はなかったが、受付の女性社員がつい今までここにいたと教えてくれた。
「先ほど田村さんとお出かけになったんですが……すぐに戻られて、暫く留守にするからと仕事の指示をされていました」
「暫く留守に? 大貫氏はどこに行かれたか知りませんか?」
 神崎の顔色が変わる。
「外洋のクルーズに出かけられるのだと思いますよ、オフシーズンはそれで一ヶ月ほど留守になることが良くありますから。ああ……でも、まだ準備でご自宅かガレージにいらっしゃると思いますが……」
「社長なら裏の駐車場で、車に荷物を載せていましたよ。これからマリーナに運ぶんじゃないかな? 裏の階段から行けば多分間に合うと思いますが」
 話が聞こえたのだろう、営業から帰った男性社員が彼等に教えてくれた。神崎は急いで階段に回る。
 駐車場に出るとステップワゴンの荷台に荷物を積み終えた大貫が、丁度運転席に乗り込むところだった。
「大貫さん! 一寸お話を伺いたいんですが」
 神崎が呼び止めると、大貫は運転席のドアを開けたまま振り返った。
「やあ、これは……今日は何のご用ですか? 生憎私はこれから出かける所なんですよ。前もってご連絡いただければよかったのですが、ちょっと今、急いでいましてね」
「……お時間は取らせません。ところで田村さんが、こちらにいらしたはずですが」
「ええ、先ほど帰りましたよ。私がいつもの外洋クルーズに出かけると聞いて、激励に来てくれたんです。シャンパンを持ってね」
 笑顔で答えた大貫は、助手席からシャンパンの瓶を取り神崎に見せた。だが刑事としての経験が、神崎に大貫の危険性を伝える。
「申し訳ありませんが大貫さん、お出かけになるのは少し先に延ばしていただけませんか?」
「困りますね、それは。海上の気圧配置を見て出発を決めているものですから……。警察とはいえ、理由もなく個人を拘束する事は、出来ないのではないですか?」
 笑顔の消えた大貫を神崎は見つめ、ゆっくりと間合いを詰める。
「確かにおっしゃるとおりです。しかし、その人物が重要参考人となれば、話は別ですよ」
 一瞬、冷たく笑って、大貫は右手に持ったシャンパンの瓶を神崎の側頭部めがけて振り上げた。咄嗟に避けた額をかすめ、瓶はコンクリートの上に砕け散る。ひるんだ神崎の脇をすり抜け、大貫は上着のポケットからシースナイフを取り出し構えた。
「やめてください、叔父さん! そんなことをしたら、貴方が犯人だと言っているようなものじゃないかっ! 嘘……だっ、そんなはず……無い!」
 成り行きを見守っていた遼が、大貫に向かって進み出る。だがその肩を優樹が掴んで止めた。
「だめだ……遼! あの人は俺達を、田村の叔父さんを裏切ったんだ」
「優樹君の言うとおりだよ、江里香を殺したのは私だ。殺して、生かした、つもりだがね。理由を話したところで、君達にはわかってはもらえまい」
「人殺しの理屈なんて、わかりたくもねぇよ!」
 遼を突き放し大貫に殴りかかろうとした優樹の腕を、咄嗟にアキラが掴んで払い倒した。
「よせっ! 素手ではおまえが怪我をする。神崎さんに任せるんだ」
「畜生、よけいなお世話だ! 放せよっ先輩、俺は許せねぇ! よくも遼の前でそんなことを言えるなっ!」
 なおも立ち向かおうとする優樹を抑えるのはアキラに任せ、神崎はホルダーから銃を取り出した。
「警察で、聞かせてもらえませんか? その理由を。ただその前に……来栖君の行方をご存じでしたら教えてもらいたいのですがね」
「あの青年なら、ガレージ二階のアトリエにいますよ。しかしもう何日も様子を見に行っていませんから、もしかしたら既に生きてはいないかもしれませんね……それともまだ息があるか? どちらにせよ急いで助けてあげてください。成田さんの時もそうでしたが、むやみに命を奪うのは、本意ではない」
「成田知子の件についても、詳しく伺う必要があるようですね」
 銃を構え、神崎はじりじりと大貫に近付く。が、不用意にも先に砕けたシャンパンの瓶の破片を踏み、一瞬視線を外してしまった。その機を逃さず、大貫は呆然と立ちつくしていた遼の背後に素早く回り込み、喉元にナイフを突きつけた。
「すまんな、遼……こんな事はしたくなかったが、警察で惨めな姿をさらしたくはなくてね。傷つけるつもりはない、ただ少し付き合ってもらうよ」
 大貫は遼を助手席に乗せ、車を発進させた。
「くそっ! 海に出られたら追えなくなる」
 急いで正面駐車場に戻ろうとした神崎の前に、タイミング良く濱田の車が止まった。
「濱田さん、大貫はマリーナに向かったと思われます。おそらく船で海に逃走するつもりでしょう。遼君が人質に取られていて、犯人の所持する凶器は小型のナイフ。ガレージに、来栖君が監禁されているようです」
「よしすぐに追うぞ! 店からマリーナに詳しくて船舶免許のある者を連れてくるんだ。大貫さんのクルーザーを追いかけることになるかもしれん」
「私が、行きます」
 その時、濱田の背後から現れた田村に神崎は驚いた。
「田村さん! 大貫が貴方は帰ったと……」
「ガレージに閉じこめられましたが、二階の非常階段の鍵を何とか壊して出てこられたんです。二階の大貫のアトリエには、もう一人学生が監禁されています。」
「恐らく来栖君でしょう、彼は生きているんですね?」
「ええ、元気な様子でした。ただ、手錠のようなもので繋がれていて、私には外す事が出来なかったんですよ。それで、助けを呼ぶまで待つように言ってあります」
 来栖に危害が加えられていないと知り、神崎は安心した。
「濱田さん、来栖君をお願いします! 自分は田村さんとマリーナに大貫を追いますから、応援を寄越してください!」
「よし、わかった! 頼んだぞ、神崎!」
 普段から犯人を追うのは体力のある神崎だった。もといた機動隊では狙撃班に所属していたため、銃の腕も信頼されている。神崎に追跡を任せた濱田は、急いで来栖の救出に向かった。
 田村を助手席に乗せ、濱田が乗ってきた警察車両を出そうとしたとき、後部座席に優樹が飛び乗った。
「俺も連れてってくれ!」
「子供の出る幕じゃない!」
 神崎の叱咤を、田村が制す。
「優樹を、連れて行ってください。お願いします」
 これ以上やりとりで時間を無駄にするわけにはいかない。神崎は無言でアクセルを踏んだ。


 ナイフを頸元に付けられながらも、遼に恐怖心はなかった。
「ナイフを、しまってください。僕は逃げません」
 大貫はナイフをダッシュボードに置き、左手だけで握っていたハンドルを両手で持つ。
「悪かった、クルーザーまで付き合ってくれればいい。その先は一人で行くよ」
「行くって、どこかに逃げるつもりなんですか? 本当に貴方が姉さんを……」
 殺した、と言う言葉を、遼はどうしても口に出来ない。
「驚いたな、いつの間におまえは正面から事実に向かい合うことが出来るようになったんだ? 以前は思ったことを、はっきりとは言わない子だったのに……。優樹君のおかげなんだろうな」
 質問には答えず、大貫は遼に笑いかけた。
「誤魔化さないでください、僕が聞きたいのは……!」
「多分、優樹君は命を賭してでもおまえを助けに来る。彼はそういうわかりやすい子だ。おまえはそんな優樹君を受け入れて、素直に信頼した。……だが私には出来なかった」
 そう言った大貫の横顔は、遼が以前洋上で見た寂しげなものだった。
「田村さん……ですか?」
「由起夫は、本気で私の陰の部分を消そうとしてくれたんだろうな……。だがあいつの光の部分を受けるほど、私の陰は深い闇に落ちていった。そこにいつしか巣くうようになった妬みや嫉み、嫉妬や猜疑心は次第に大きく育ち、あいつを最大の裏切りで傷つけ貶めてやりたいと思うようになってしまったんだよ。おまえには俺を救うことなど出来ないのだと思い知らせることで……」
「叔父さんは、それで何を手に入れたんですか?」
 大貫は何も答えなかった。遼の胸は、苦しいほどの切なさに締め付けられる。
(光が強ければ強いほど、その闇は深くなる……)
 大貫の言うことは理解できた。しかしその闇に呑まれてはいけない。
「僕は、貴方にはならない」
 大貫の表情がふっ、と、緩んだ。

 マリーナに着くと、大貫は遼を車に残して自分が愛用している小型クルーザーに大型のシステムバッグを注意深く運び込んだ。このクルーザーは、大貫が会社を興したときに初めて購入した物で、型は古いがよく手入れされている。30フィートほどの船体にはフライングデッキが付き、コクピットにハードトップはなかったが、居心地の良さそうな小さなキャビンも付いていた。エンジンは最近になって4ストロークの船外型ガソリンエンジンを付けた為、出力も上がったと彼が田村に自慢していたのを遼は聞いたことがある。
 出航の準備をする大貫を見ていた遼は、意を決し、車を降りてクルーザーに飛び乗った。既にエンジンはかかっている。
「降りるんだ、遼!」
「……厭だ! このまま叔父さんを行かせられない」
 向こうから、サイレンを鳴らし警察車両が近づいてくる。大貫はリモコンレバーを前方に倒し、ハンドルを握った。


 桟橋から離岸していくクルーザーを見て、神崎は小さく舌打ちした。今一歩のところで間に合わなかったようだ。大貫の船は徐々にスピードを上げる。濱田が既に海上保安庁に連絡を入れたはずだが、外洋に出る前に追いつかなければ捕まえることが出来ないかも知れない。一度見失えば、このあたりの海に詳しい大貫が、浅瀬を選んで姿を隠しながら逃走することは容易に違いないのだ。
「神崎さん! この艇を借りましょう」
 田村が近くの係留所でナイトクルージングの用意をしていたクルーザーの持ち主に、話をつけたようだ。係留ロープを外し、フェンダーと一緒に取り纏めて既に艇に乗り込もうとしている。
「助かります、田村さん」
「なに、餅は餅屋、ですよ。この艇の持ち主は大貫と私の知人なんです。どうしても彼を捕まえたいが、無線が通じないと言ったら快く貸してくれました」
 優樹も神崎に続いて艇に乗り込んだが、神崎はもう何も言わなかった。
「この艇はツインエンジンで足が速く小回りも利きますし、フライブリッジですから大貫の船も見つけやすいはずです。すぐに追いついてみせますよ……少し荒っぽい操縦になりますから気を付けてください。船は平気ですか?」
 田村の横で、神崎は自信なさそうに頷いた。実際この手の小型艇に乗るのは初めてで、確かに見通しがよいが甲板から高い位置にあるフライブリッジは、振り落とされそうで落ち着かない。甲板を見下ろせば優樹が、バウスピリットで姿勢を低く固定し今から揺れに備えている。神崎は気を取り直し、遠ざかりつつある大貫のクルーザーを睨んだ。
 離岸し、係留されている他のボートから離れると田村はすぐに加速し、既に内湾を抜けようとしている大貫のクルーザーとの距離を徐々に縮めていった。神崎はホルダーから銃を取り出し、照準を決めやすいようにハンドレールに固定した左手に右手を添えた。
「神崎さん、大貫の艇は旧型のガソリンエンジンです。船外型ですから、当てたら爆発するかも知れませんよ」
 エンジンを狙うであろう神崎に、田村は先に忠告する。
「それは……まずいな、遼君に怪我をさせるわけにはいかない」
「船外に見えるプロペラ周辺を狙えば、停船させられるかもしれません」
 目を凝らし、神崎は大貫のクルーザーのエンジンを見た。しかし激しく波立つ中に上下して見え隠れするプロペラを銃身の短いこの銃で狙うことなど、いくら腕に自信のある彼でも無理な相談だ。誤ってエンジンに当たれば、38口径の銃弾が爆発を誘発する可能性は大きい。
「難しい事言うなぁ……、他に停船させる方法はないんですか?」
 田村は暫く考えていたが、
「神崎さん、銃の腕に自信がありますか?」
 と、正面を向いたままで尋ねた。
「自慢じゃないが、以前いた機動隊狙撃班ではライフルだけじゃなく銃の方も信頼されていましたよ」
「では、大貫を撃ってください」
「……しかし、相手は無抵抗だ」
「気が付きませんか? 大貫は叢雲学園方面の岸壁に、進路を取っている。あの周りは岩礁です、大貫が自分だけならともかく遼君を危険にさらすとは思えませんが……悪くすると座礁の危険性がある。傷を負えば、操舵が思うようにならずにスピードを落とすでしょう。そうすれば、前に回り込める」
 田村の言いたいことが、神崎にもわかった。狂気に支配された大貫が、遼の身の安全を計るとは限らない。
「よし、やってみよう……!」
 神崎は慎重に、コクピットの大貫を狙った。

 クルーザーが、叢雲学園のある岬に向かっている事に遼は気が付いていた。だが大貫の意図するところは計り知れない。逃走するつもりならば、外洋に向かうはずである。
「江里香を、返してあげようと思ってね……」
 突然、それまで黙っていた大貫が口を開いた。
「返す?」
 頷いて大貫は、足下のシステムバッグに手を置いた。
「あの子の身体は、叢雲学園下の岩礁に眠っている。本当は、あの石膏像を返してやるつもりだったんだが……おまえがあれを見つけてしまったために出来なくなったんだよ。だからせめて、これを返そうと思ってね。……バックを開けてごらん」
 黒いナイロン製のシステムバックを開くと、そこにはクッション材で丁寧に包まれた見覚えのある造形物が入っていた。顎で促され、遼は包みを解く。
「あ……っ!」
 真珠の光沢を持つ、純白の少女……それは紛れもなく榊原江里香の頭部像だった。あまりの美しさに、遼は言葉を失う。しかし我に返ると、込み上げる絶望に唇を噛んだ。どこかでまだ、間違いであって欲しいと願っていた気持ちが無惨に打ち砕かれたのだ。
「……くっ!」
 大声で叫びたいのを堪えると、初めて怒りで身が震えるのがわかった。
「叔父さん……あなたは、何故!」
「おまえは、死者の幻を見ることが出来るのだろう?」
 虚を衝かれ、遼は大貫を見つめ返した。
「おまえがまだ幼いとき、姉さん達が相談に来た事があった。私はありのまま受け入れてやるべきだと言ったが、秋本君も姉さんもそれが出来なかったんだよ。だから私だけは、おまえの言うことを信じようと思ったんだ」
 そうだ、遼の言葉をそのまま頷いて聞いてくれていた大人は大貫だけだった。優樹に出会うまでは……。
「……親にさえ拒絶された本当のおまえを、優樹君はあっさり受け入れた。それがどれだけ幸せなことか、わかるか? 私は江里香をとても愛していたのに、彼女は姉さんの忠告で私を避けていた。姉さんは私を怖がっていたんだよ、江里香に何かをするんじゃないかとね。姉さんと江里香に拒絶され、私はとても孤独で、すがるものが欲しかった……そして、せめて頭部像を造り身近に置こうと思った。だが、何度造り直しても満足のいく物は出来なかったんだ……」
「嘘だ……! 母さんは弟である叔父さんを大切に思っている」
 くっ、と大貫は喉で笑った。
「あの人も歳をとったのさ、昔を全て水に流せると錯覚してしまうほどにね……。秋本君と結婚するまで、姉さんは私を忌んでいた。姉さんに対する私の敬愛を、変質的に捉えて逃げていた。だが仕事と家庭で精神的に満たされた時、ようやく間違った思い込みだったと私に詫びたんだ。江里香も接する回数が増えて心を開いてくれるようになったが、私の中では別の感情が育っていき、だんだん抑えられなくなっていった……」
 これ以上、聞きたくないと遼は思った。信頼していた、尊敬していた叔父が、闇に落ちていく過程など知りたくはなかったのに……。
「あの人は、既に私の愛した姉ではなかった。完全な美しさを、生きた人間に求める事は不可能なんだ。私は私の理想を形にしたかった。そして思いついたんだよ、ベースになるマスクを誰かに取らせて貰う事を……。当時、用具のレンタルで出入りしていた私の申し出を、山本葉月は快く引き受けてモデルになってくれた。だが私が求めるものを彼女は与えてはくれなかった、乾陽子もそうだ……。二人とも、初めから殺すつもりは無かったんだよ。山本葉月君は意識を失ったところでマスクを取り、そのまま帰すつもりだったが途中で窒息してしまった。乾陽子は呼び出した先で争っているうちに、村雲神社の境内から落ちてしまった……。後戻りが出来なくなった私は、今度は周到に計画を立てた。欲しい物を手に入れるために、姉と田村に思い知らせるために……」
「思い詰める前に、なぜ田村さんに相談しなかったんだ! きっと力になってくれたはずなのに……あなたは自分から拒絶したんだっ!」
 思わず叫んだ遼に、向き直った大貫の顔は苦しそうに歪んでいた。
「娘をもうけ、妻を持ち、幸せそうな家庭を築いたあいつに言えるわけがない。受け入れられるはずがないと思ったんだよ。」 
 わからなかった、今までは。自分も気が付くのが遅ければ、大貫のように闇の部分に取り込まれ、逃れられなくなって苦しみ続けたに違いないのだ。
「取り返すことが出来ます、遅いなんて事はない。今からでも、田村さんを信じることが出来るはずです。あの人は必ず力になってくれる。帰りましょう、叔父さん」
「それは……」
 突然、遼は耳元で空気が激しく切り裂かれる振動を感じた。はっ、として後ろを振り返ると、真後ろに迫ったクルーザーのフライブリッジの上から、神崎が銃を構えているのが見える。
「叔父さん!」
 右肩を押さえ、コクピットにうずくまる大貫に遼は駆け寄った。押さえる左手の指の間から血が滴り落ちる。
「遼、レバーを中立に入れるんだ! この辺りは岩礁が多い、スピードを落とさなければ危険だ」
 遼は言われた通りにレバーをゆっくりと中立に戻す。何度か大貫のクルーザーに乗って操船したことがあったため、操作に戸惑うことはなかった。
 田村の艇が徐々に近づくと、バウスピリットに立ち上がった優樹が、ハンドレールを乗り越え大貫のクルーザーに飛び乗った。
「優樹君! 無茶をするんじゃないっ!」
 銃を構えたままフライブリッジから降りかけた神崎が叫んだが、聞いてはいない。
「遼を、返せ!」
 優樹は、怒りを露わに大貫を睨み付けた。
「必ず来ると思ったよ、優樹君。君の行動力は賞賛に値するな。心配しなくていい……目的を果たせば遼を帰すよ」
 大貫は再びナイフを手にする。
「すまんが遼、そこにあるタオルで肩を縛ってくれないか?」
 止血のために、遼がタオルで大貫の肩をきつく縛っている間、優樹はキャビンの床にあったロッドケースから手探りで並継竿の元竿を取り出した。大貫が外洋トローリングでヒラマサなどの大物釣りに使う、カーボンプリプレグ製の太く頑丈な代物だ。大貫は気付いていないようだが、優樹が何をしようとしているかを遼は瞬時に理解した。
 止血を終えると大貫は、ナイフを遼の喉元に付けたままレバーを前進に倒した。ゆっくりと動き出したクルーザーに、飛び出すタイミングを見計らっていた神崎が焦って叫ぶ。
「戻るんだ! 大貫さん!」
 船尾が田村の艇から離れた事を確認するため、大貫は後ろを振り向いた。その一瞬に、優樹がコクピットに跳躍する。ひゅっ! と風が巻き起こり、手にしたロッドが鮮やかに大貫の喉を突いた。
「ぐう……っ!」
 仰け反って、弾かれたように大貫が倒れる。しかし、いつも使う竹刀と違って長さが足りず、強いダメージは与えられなかった。よろめきながらも立ち上がり、大貫はレバーに手を伸ばした。
「来い、遼!」
 素早く優樹が、遼の手を引いた。
「離してくれ優樹! 僕は叔父さんを連れて帰らなくちゃいけないんだ!」
 掴まれた手を振りほどこうとする遼に、大貫が叫んだ。
「優樹君と行くんだ、遼。おまえに私は救えない、ライフジャケットを付けて早く飛び降りるんだ!」
 クルーザーは速度を増していく。
「行くぞ!」
 優樹はキャビンのシート下からライフジャケットを引っ張り出し遼に被せると、半ば無理矢理、抱きかかえるようにして右舷から海に飛び込んだ。
 田村が投げた救命浮環に捕まり、二人が引き上げられている間に大貫の艇は遠く離れていく。射程距離にない容疑者に為す術もなく、神崎は海上を睨んで拳をハンドレールに叩き付けた。
「遼くん、血が出ているぞ」
 田村の言葉で頚に手をやると、大貫のナイフが当たったのだろう、確かに切り裂かれた皮膚から血が滲んでいる。
「大丈夫です、大した傷じゃありません。それより早く叔父さんを追ってください、田村さんなら止められるかも知れない。僕では……ダメなんだ」
 すがる思いで遼が頼むと、優樹が前に立ちふさがった。
「今更どうするつもりだ! あの人は俺達を裏切り、おまえを傷つけた」
「優樹、彼は……」
 大貫を庇おうにも、言葉が見つからない。ましてや優樹には理解できない事なのだ。
「許せねぇ!」
 その時確かに、優樹の瞳を紅く妖しい光が一瞬横切ったのを遼は見た。
 あっ、と、田村から声があがり遼が海上に目を向けると、大貫のクルーザーが海から突き出た鋭い切っ先のような岩礁に乗り上げ、まるで何かに持ち上げられたかのように高く宙に飛ぶのが見えた。そして木の葉が舞うように回転し、船尾からその岩に激しく叩き付けられる。
 その時、時間が止まった気がした。が、火を噴いたクルーザーは大気を震わす爆発音と共に細かい破片となって、雨のように海に降りそそいだ。
「直人っ!」
 悲痛な田村の叫びが、波間にこだました……。


 間もなく海上保安庁の巡視船と千葉県警の船が現場に到着し大貫の死体を探したが、おそらく見つけだすことは難しいと思われた。それほどに爆発の衝撃による船体の残骸は細かく、見る影もない。岩礁に乗り上げただけで、あれほどの爆発炎上が起こるとは田村には信じられなかった。座礁して転覆しても、まだ大貫を助けられるかも知れないと抱いていた淡い期待は、裏切られてしまったのだ。
 水平線上に太陽は沈み、残照は色濃い闇に浸食されていく。代わって洋上を冷たい月の光が寂しく照らし出した。港に帰るクルーザーのデッキの上で黙って海を見つめる優樹の瞳に、先ほど見られた怪しい光は影もない。見間違えであったのか? 見間違えであって欲しいと遼は願う。そうでなければ……。
「こんな事言うとまた、おまえに怒られるかも知れないけど、大貫さんはああするしかなかったんだ。どんな訳があるのか知らないし、多分、俺には理解が出来ないことだと思う。だけど、あの人は自分の居場所を見つけることが出来なかった。それだけはわかる気がするんだ」
 優樹の言葉に遼は頷く。
「うん……、君の言うとおりだよきっと。『この世の全ては必然から成り立っている。偶然の要因は存在しない』と、昔誰かから聞いたことがある。多分こうなることは、変えられなかったんだ」
「おまえ、よくその言葉を覚えてたな」
 えっ、と、遼は優樹の顔を見た。
「それ、俺のオヤジが死ぬ前に俺達に言った言葉だぜ。オヤジが危篤になったとき、田村さんや大貫さんと一緒におまえと、おまえの両親も会いに来てくれただろう? 付き合いがあったからな。その時、俺達二人を病院のベッドの枕元に呼んで、どうしようもないくらいぼろぼろ泣いてる俺にオヤジがそう言ったんだ。だから泣くなって……。俺がオヤジの最後の言葉を覚えてるのは当たり前だけど、おまえも覚えててくれたんだな」
 ああ、そうだ。何故今まで忘れていたのだろう? 確かにそれは、優樹の父親が、いまわの際に言った言葉だ。そして彼は「優樹をお願いしたよ」と遼の手を強く握ったのだ。
 あの時は、ただ目の前の死にゆく人間の姿がただ恐ろしくて、何を言われたのか、どういう意味なのかなどと考える余裕がなかった。でも、今ならわかる。
 遼の頬に涙が伝う。嬉しいような、哀しいような、複雑な思いに、それをとどめることが出来ない。
「なんだ、また泣いてるのか? おまえ、男のくせに泣き虫だなぁ……。俺はオヤジと約束したから、どんなことがあっても泣かないぜ」
「ほっといてくれよ、君と違って僕は……」
 先の言葉が続かない遼の肩に、優樹がそっと手を置いた。


 マリーナでは濱田や警察関係者と共に、アキラが彼等を待っていた。遼の両親の姿もあったが、母親の千絵には田村小枝子がぴったりと寄り添っている。度重なる出来事に涙も枯れたのか、血の気のない顔ながらも、千絵は泣いてはいなかった。
「来栖は取り敢えず病院に行ったけど、ぴんぴんしてたよ。水も食料もきちんと出されてたようだし、それどころか大貫さんからアドバイスをもらいながらアトリエでフィギュアのモデル像を粘土で造ってたんだぜ、大したヤツさ。……大貫さんは、辛い結果になっちまって残念だったな」
 田村からの無線で経緯を聞いたのだろう、アキラがクルーザーから降りた遼に声をかけた。無理に笑顔を作ろうとすると、優樹が「無理、するな」と肩を支える。
「悪いが三人とも、これから本署で事情聴取があるんだが来てもらえるかな? もし後日がよければ……」
 気兼ねするように、神崎が尋ねた。
「いえ、僕なら大丈夫です」
 遼は、はっきりと答えて優樹と共に神崎の車に乗った。アキラも濱田と車に向かう。その後を追うように、晩秋を迎えようとしている海上を冷たい風が渡った。未知なる獣の遠吠えのように、それは渦を巻き天空へと昇って鋭い咆吼をあげた……。