〔一章〕
     ―1―

   美術室の西側の窓は開いたままだった。透明で涼やかな秋風が運んでくる波の音は心地良いし、時折断崖を伝ってこの高台まで吹き上げてくる湿った潮のにおいも嫌いではない。しかしそろそろ風は冷たさを増し波の音も荒くなってきたようだ。気が付けば窓から射し込む西日が、イーゼルの長い影を白いモルタルの壁に黒々と映しだしている。
(もうそろそろ限界かな。)
 秋本遼はデッサン用の木炭を走らす手を止めた。
 沈みかけの太陽は、水平線上に重なり合いその向こうの夜の闇を移すかのように重く暗い灰色の雲の隙間をまるで血のように鮮やかな緋色で縁取っている。それはまるで、我が物顔で天空を走る太陽が地獄に引きずり込まれる瞬間にあげる断末魔の悲鳴。恐ろしさを感じながらも心が奪われるこの眺めが、遼は好きだった。
 椅子の背もたれに掛けてある制服の上着の内ポケットから取り出した携帯は四時三五分を表示していた。文化祭のテーマに選んだ教室の西からの光で陰影をつけたデッサン画は時間的に制限がある。今更悔やんでも仕方がないが、これほど日の傾きが早くなっては来月末の文化祭に間に合うかどうか。後は記憶を頼りに進めて、仕上げで補正するしかなさそうだ。
 デッサン画を丸めてケースに納め、イーゼルを壁際の定位置に置く。デッサンモデル「アキレス」は他の石膏像の並ぶ棚に戻さなくてはならない。
 本来土曜日は三時以降美術教室の使用が禁止されているのだが、文化祭を控えたこの時期を理由に美術部顧問の八街が責任者の成田に頼み込んで、ようやく五時まで開けておいてもらえることになったのだ。成田は備品管理にうるさい。少しでも石膏像の位置が違えば嫌味を言われてしまうだろう。
 重い石膏像を両腕で抱え、壁に固定された八〇センチほど奥行きのある頑丈な木製の棚に戻す。そのときつま先が何かを踏んだ気がして、遼は棚の下をのぞき込んだ。奥に黒い布に覆われた、胸像らしき物が置いてあるのが見える。棚の下から出ていたのは、その布の端だった。
(こんな物、あったかな?)
 布の中身に興味をそそられ、棚の下に潜り込んで手を掛けようとした時。
『見ないで!』
 誰かが頭の中で叫んだ。突然、全身に冷たい戦慄が走り、全ての体毛が逆立ってゆく。開いた毛穴から虫がはいだし体中をうぞうぞと這い回るようなこの感覚。久しく忘れていた、忘れていたかったこれは……。
(……くる!)
 目の前が白く輝く。ホワイトアウト。フラッシュ・バックする音、場面。女の子、制服、笑顔、困惑、恐怖、懇願、叫び。ブラックアウト。
 呪縛から開放された途端、冷たい汗が脇を伝い落ちた。
(厭だ……、もう見たくなかったのに……)
 蹲り膝に顔を埋める。目の奥が熱く刺すように痛み、涙があふれた。


 日が傾き薄闇が迫りつつあるグランドで、ようやく運動部の連中も練習を終いにする気になったようだ。武道館を出た篠宮優樹は道着と竹刀を肩に担ぎ、ストレッチで身体を解す陸上部員の脇を駆け抜けて美術室のある西棟へと急いだ。
「おーいっ優樹! おまえ帰ったんじゃなかったのかぁ?」
 器材のハードルを抱えたクラスメイトがその姿を見つけ、大声で呼ぶ。
「ちょい、野暮用!」
 優樹は片手を挙げて返事をすると、玄関は通らず渡り廊下から校舎に入った。こちらの方が、階段に近い。
 一気に三階まで駆け上がり、美術室の扉を勢いよく開ける。
「おい遼、迎えに来てやったぞ!」
 しかし、応える声はなかった。
「あれっ、いないのか?」
 やけに静まりかえった教室に足を踏み入れ、友人の姿を捜す。
「トイレかな?」
 今週末、遼は優樹の下宿先に泊まりに来る約束だった。一緒に帰るために、五時に呼びに来ると言ったのだが……。ドアの鍵も開いたままで、先に帰ったはずはない。
「おっかしいなぁ……」
 肌寒さを感じて窓を閉めようとした優樹は、窓際の床に膝を抱え込むようにして座り込んでいる遼に気が付いた。
「なんだ、いるなら返事くらいしろよ」
 呼びかけてみても、まるで生気のない石膏像のように遼は身じろぎもしなかった。その、ただならぬ様子に優樹は慌てて片膝を着いた。
「遼、大丈夫か?」
 反応がない。
「おいっ、遼!」
 肩を掴み軽く揺すってみる。すると微かな声が返ってきた。
「大丈夫、なんともない……」
「何ともないようには見えないぞ。どっか具合悪いのか? ちょっと待ってろ、今当直の先生を……」
 遼の手が弱々しく優樹の手を掴む。
「見たんだ……また」
「見たって何を……あっ!」
 優樹にははすぐに思い当たることがあった。
「だっておまえ、最近見なくなったって言ってたじゃないか。もう二年くらい見てないって」
「うん、そうなんだけど……あれは確かにいつものやつだよ」
 顔を上げた遼の頬に涙の後があるのを見て、優樹は友人を苦しめる得体の知れないものに、いい知れない怒りがこみ上げてくるのを感じた。

 他人に見えないものが自分には見える。遼がそのことに気付いたのは、大人との意志疎通が出来るようになってきた四歳ぐらいの頃からだ。
「猫さんが寝てるよ」
「踏んじゃだめ、鳥さんがいるんだよ」
そう言って何もいない公園のベンチや地面を指さした。だがそれは、かつてその場所で生き、死んでいった生物の残像だったのだ。
 もともと言葉の遅いことを母親や周りの人間が心配していたためか、少し変わった言動を、初めのうちは誰もとりたてて問題にはしなかった。しかし小学校に上がる歳になり、さすがに心配になった両親は医者に診断を仰ぎ、場合によっては専門の学校に入れることを考え始めたのだ。泣きながら父親の説得に応じる母親の姿を見て、遼は見えるものを見えると言うのを止めてしまった。両親は安心し、普通に小学校に通う事になったのだが、成長するに伴い能力はやがて過去に焼き付いたその場所の映像をより鮮明に目の前に映し出すようになっていったのである。
 普段の生活の中、何気ない場所で見える過去のヴィジョンは慣れてしまえばそれほど困ることはなかった。時折学校やファーストフード店、またはゲームセンターでいるはずのない友人に声をかけてしまい周囲の失笑を買うぐらいでしかない。しかし事故や自殺、あるいは殺人の起こった現場においては、それは言い難い苦痛をもたらした。命が失われる瞬間の恐怖、悲惨かつ凄惨な光景を目の当たりに見て、悲鳴を上げ、時に気を失うことすらあったのだ。
 その奇行はすぐに噂となり、クラスメイトに避けられるようになって、陰湿ないじめが始まった。幼い頃は素直に信じてくれていた仲間さえも既に味方ではなかった。ただ一人を除いては。
 優樹は遼に手を貸して椅子に座らせると、床に落ちていた上着の埃を払って手渡した。
「それにしても、真っ青で今にも死にそうですって顔だな」
「えっ、そんな顔してる?」
 その時やっと、自分が涙を流していたことに気付いて、遼は慌てて袖口で頬を拭う。
「あ、いやっ、それほどでもないけどさ……」
 その様子を、見て見ぬ振りをしながら優樹は口ごもった。
「前は例のやつが来てもそんな顔しなかっただろ。その……かなりひどいものが見えたのか?」
「う……ん。久しぶりだったし、ショックが大きかったんだと思う」
「でさ、何が見えたんだ?」
 遼は見たものを思い出そうと、目を閉じる。
「この高校の制服を着た女の子。窓から見える海を描いている。誰か……多分その子と親しい人が教室に入ってきて……」
 息苦しさを覚えて遼は表情を歪めた。
「彼女の首に手を掛けた……」
 えっ、と、優樹が顔色を変えて小さく叫ぶ。
「まさか……絞め殺したのか?」
「わから……ない。でも……」
 震える手で頭を押さえて、きつく唇を噛む。ありありと浮かぶ、恐怖の表情。なぜ、と、訴える瞳。それは誰に向けられているのか? そして悲しみと絶望に歪んだ顔が、だんだんと……。
「大丈夫か?」
 心配そうに顔を覗き込んだ優樹に、遼は無理に笑顔を作ろうとした。
「無理すんな。ここで殺人事件があったなんて話は聞いたこと無いけど、おまえが言うなら本当のことだよな」
(君だけが、いつも信じてくれた)
 中学でいじめに遭い、辛かった毎日を支えてくれたのは優樹だけだった事を思い出し、遼はまた涙が出そうになるのを必死でこらえた。
 5歳の頃から剣道を習っている優樹は暴力に訴えることこそ無かったが、遼に嫌がらせをするクラスメイトを呼びだしては迫力のある抗議をしてくれた。おかげで次第にいじめは影を潜めていったのだが、結局クラスに馴染む事が出来ないまま、遼は父親の転勤を理由に学校を去っていったのだ。
(沈まない太陽……)
 遼の心には、優樹に対して複雑な感情があった。明確な形を思い描こうとすれば、不安になる。それは自分に自信を持てないが故のジレンマなのだと、意識し始めたのはいつからか……。
「その……おまえがヴィジョンて言ってるやつだけど、この場所で見たのか?」
 優樹の言葉に、遼は思考を閉じた。
「……うん、正確にはあの棚の下。ほら、何か黒い布がかぶってるものがあるだろ。それが何かなって思って、布を取ろうとしたんだ。そしたら急に……」
「OK、じゃあそいつを見てみようぜ」
 頭に響いたあの声が鮮明によみがえり、遼は顔色を変えた。
「関係ないと思うよ。たまたまそのときに重なっただけで……」
 違う、関係があるのだ。だからこそ、その正体に近づきたくないのが本当の気持ちだった。
「いや、絶対なにかある」
 制止を無視して、優樹は棚の下の黒い布に覆われたものを引きずり出し、上に載せる。
「思ったより軽いな。それに……」
 揺すってみると、中でかたかた何かが動く音がした。そっと布をはずす優樹の肩越しにそれを見ていた遼が、小さく叫んだ。
「あっ……!」
 まぎれもない、あの少女だ。真珠のように美しく磨き上げられた白い石膏像。ただ耳の下にあるどす黒い3センチほどの染みから放射線状に幾筋かの亀裂がはしっている。
「これ、何かの手がかりかもしれないぜ。石膏像に隠された死体……なんてな」
「もういいよ、早く元に戻して帰らないと成田先生に教室を貸してもらえなくなるし」
「あ、そっか、悪い悪い……。でもさ、おまえが見た女の子って実はこの石膏像そっくりなんじゃないのか? だとしたら……」
「やめようよ、詮索するのは。これが関係あるとは思えない」
 手から布を奪い取った遼に、ふうん、と、優樹は不審な目を向けた。が、布で包み終わるのを待って、横から手を出す。
「俺が戻すよ、出したのも俺だし」
 少し躊躇いながらも、遼が手を引っ込めると優樹が石膏像を持ち上げる。
「おじさん、おまえが来るのを楽しみにしてるんだぜ。いっそ俺と一緒にあそこに下宿しちまえよ、寮なんか出てさ」
「そんなわけにはいかないよ。でも田村さんのロールキャベツ、あれ好きだな。小枝子さんの焼いてくれるパンも」
「おまえが好きだって言えば毎日作ってくれるんじゃないか? 俺は肉じゃがとか納豆とかの方がいいけどな」
 笑いながら優樹は、石膏像を胸に抱えて一歩下がった。そして、
「おっと、手が滑った!」
 わざと、床にそれを落とした。ごとり、と、鈍い音がして石膏像は二つに割れる。
「俺に嘘付くなよ。おまえ、これを見たんだろ?」
 動揺を隠しきれない声で言うと、優樹は遼を見た。
 中から出てきたのはひからびた、髪の長い人間の頭部だった。

 もしかしたら、自分は呼ばれたのかもしれない。そう考えながら、遼は窓際の壁にもたれかかって赤黒く乾いた小さな塊を見つめた。一瞬漂ったかび臭いような、ほこり臭いような、饐えた匂いはもう無い。
(君は誰だ?)
 不思議なことに頭部に残る長い黒髪は、未だ生ある者が所有するかのように黒々として艶やかな美しさを保っている。恐怖心は、湧かなかった。それどころか息苦しいほどの切なさが込み上げてくる。
 窓の外はいつしか深い闇に覆われ、海から吹き込む冷たい風が汗に濡れたシャツを背中に張り付かせた。いつこれほどの汗をかいたのか? 今になって寒気を感じるまで気が付かなかった。
 波が岩に砕ける音が風に巻き込まれて、まるで海の底からの咆吼に聞こえてくる。ひときわ猛々しい叫びが風に乗り、カーテンを舞い上がらせ彼女の黒髪をゆらした。悲しみを湛えた二つの黒い穴が、真っ直ぐに遼を見つめる、。
「君は誰だ?」
 ヴィジョンを見ることは出来る。しかし答えを聞くことは出来ない。たとえ彼女が呼んだのだとしても、自分にはどうすることも出来ないのだ。
 優樹に呼ばれて、当直の教師と所用で来ていた二人の教師が美術室に駆けつけてきた。説明だけでは当然本気にしていなかったのだろう、疑い深そうにそれをのぞき込んだ三人はいきなり顔色を変え、一人が警察に連絡を取るためあわてて職員室に引き返した。残った二人は小声でなにやらひそひそと話し込んでいる。どうやらこの死体に心当たりがあるようだった。
「熊谷先生、もしかしてこの死体が誰なのか知ってるんじゃないんですか?」
 すかさず優樹が教師の一人に詰め寄った。
 熊谷は優樹の所属する剣道部の顧問で、実家の道場では小学生を相手に剣道教室を開いている。優樹とはもう長い付き合いだ。
「うむ、実は十何年か前にこの高校で女子学生が三人行方不明になってなぁ。二人が死体で見つかり、一人はまだ見つからないままだったんだよ」
「熊谷先生! 生徒になんてことをおっしゃるんですか!」
 熊谷の後ろにいた若い女性教師は、顔を引きつらせながらも努めて冷静さを保とうとしているようだ。しかしその裏返った声はかすれて甲高く響いた。
「刈谷先生はご存じでしたか?」
 熊谷は女教師の言葉など気にとめる様子もない。刈谷は二人の生徒を伺い見て、顔をしかめた。
「……噂程度には」
 刈谷は今年着任したばかりの生物教師だ。その彼女でさえ知っているこの学園の事件とは何なのだろう。
「熊谷先生、詳しいことを教えてもらえませんか?」
 優樹はもう一度熊谷を問いつめた。
「うーん、そうだなぁ話してやっても良いと思うんだが。ところでおまえは何で美術室なんかに居たんだ? 部活は随分前に終わったはずだが」
「俺はこいつを迎えにきたんだ」
「彼は?」
「秋本遼。クラスは違うけど親同士が知り合いでさ。今日俺の下宿に泊まりに来ることになってるんだ」
「秋本? ……秋本遼か!」
 熊谷の表情が険しくなる。
「すまんな、やはり俺からは何も言えんよ。多分警察が……いや、おまえのおじさんが教えてくれるだろう」
 意外な言葉に、遼と優樹は顔を見合わせた。それは自分たち二人に、何か関係があるように聞こえたからだ。
「どういう意味ですか? なんで田村さんが……」
 優樹の問いに熊谷は、眉根を寄せた複雑な表情で黙り込んだままだった。二人を見つめる遼の胸中に、重い不安が湧き上がる。
「警察が、来ました」
 職員室から戻った教師の声で出入り口から顔を出した熊谷は、驚くほど多くの警察官に、言葉を失った。


 千葉県警本部から現場に向かう車の中で、濱田は煙草に火をつけると少し窓を開けた。高速を降りてから、九十九折りに連なる海岸沿いの道をもう暫く走っているのだが、夏場には海を目当ての若者で真夜中までにぎわうこのあたりも、初秋のこの時期すれ違う車の影もまばらだった。窓の外から風に乗って運ばれてくる潮の薫りは、彼が普段感じている油の混じったようなそれとはまるで違う。
「潮のにおいがやっぱり違うなぁ、神崎」
 聞こえているはずだったが、ハンドルを握る若い刑事は何も答えない。普段は口数が多く明るい性格の男で、現場まで長時間車で移動しなくてはならないときは、いつもそのおしゃべりに辟易とさせられた。しかし今回は、なぜか得意の推理を披露することも、犯人に対しての怒りをまくし立てることもしない。
(確かこの辺の出身だと聞いたことがあったな……)
 だとすれば当時、丁度高校生ぐらいの彼が例の事件にかなり強い衝撃を受けたとしても不思議はない。
(まさかそれで刑事になったというわけではないだろうが)
自分が捜査を担当することになって、気負っているのかもしれなかった。
「後十分ほどで現場に到着します」
 ああ、と低く言葉を返して、濱田は事件に頭を切り換えた。

 今から十二年前、房総半島のはずれの小さな岬町で三人の女子学生が一ヶ月の間に続けて行方不明になった。丁度、夏休み中の開放的な生活からまた窮屈な学校生活にもどって、馴染むことの出来ない生徒の家出がよくある時期だった。捜索願を出された警察も、本気で捜す様子はないようだったが、一人目の女子学生の捜索願が出されて一週間後、事態は急変した。
 波にもてあそばれ、岩にたたきつけられ、彼女は見る影もない無惨な姿で、長い黒髪を漁船の網に絡ませ引き上げられたのだ。しかも、その身体にはコンクリートブロックがくくり付けられており、明らかに何者かの手による殺人なのだということを物語っていた。
 二人目の捜索願が出されたとき、この女子学生が次の被害者になると予想できた者はまだいなかった。そして彼女もまた、うち捨てられた人形のように波間に哀れな姿で浮かんでいるのを発見されたのだ。だが何れも警察は、犯人に繋がる手がかりを何一つ見つけることが出来なかった。
 三人目の捜索願が出されたときは、最初から同一犯による連続殺人の可能性を考慮しての捜査が行われた。だが警察の懸命な努力に関わらず、十二年の間彼女は見つかっていなかった。
 当初から捜査に関わっていた濱田は、長い年月の間に担当の捜査官が一人二人と減っていくなかで、頑としてこの事件から外れることを拒み続けてきた。そして今や専任の担当刑事は濱田ただ一人となり、相方の神崎の仕事をサポートしながら地道に捜査を続けている状況だった。
(見つかった頭部は行方不明になっている女子学生のものに違いない)
 連絡を受けた濱田は確信していた。
(やっと犯人に近づくことが出来そうだ……)
 殺人事件は二人の被害者を出し犯人は逃走を続けているというのが大方の見方で、三人目の女子学生が事件の被害者だという証拠は今まで何もなかった。
(ヤツは三人目で目的を果たしたのだ)
 犯人が遂げようとした狂気の動機はまだ分からない。しかし今度こそ犯人の輪郭を描くことが出来る。
(ヤツは明らかに意図して死体に手を加えている……!)
 濱田は高ぶる感情を抑えきれずにいた。

 バス通りから海に向かって、地を這うように曲がりくねった低い松の防砂林が続いていた。その間を縫って綺麗に砂を除かれた石畳の遊歩道が続き、懐古趣味的なガス灯を模した暗い街灯の下を十分ほど歩くと突然目の前が開けて、岸壁に激しく波が叩きつける音と強い潮の香が急に間近になった。
 岬の先端は申し訳程度に落下防止用の柵が回らせてあったが、飛び降りる気になれば何の役にも立たない程度の代物である。波打ち際には荒波に削られ鋭く切り立った岩が黒々と連なり、もしこの断崖から飛び降りようとするならば、身体を真二つに裂かれることを覚悟した者に他ならない。
 海に向かった左手には、太平洋戦争時代、東京湾を監視する目的で創られたという小さな灯台と、この人気のない場所にはそぐわないほどに立派な社がある。灯台の方はうち捨てられさびれていたが、社は潮にさらされるこの場にありながら綺麗に体裁を整えているところを見ると、きちんとした管理者がいるに違いなかった。社の裏手からは、急な細い石段が海岸へと続いている。
「日が暮れてからここを下りるのは、気が進まんのだがなぁ」
「濱田さんが、早い方から行こうと言ったんですよ」
 確かに現場に早く到着するにはこの道しかない。若い学生やまだ二十代の神崎ならともかく、既に五十をすぎている濱田にはきつい下り坂だった。手摺りに掴まっていても眼下の波の音がどうにも気になって仕方がない。月明かりで海が明るいのがせめてもの救いだった。
「急がないと鑑識の車の方が先に着いてしまいますよ」
 気持ち、からかうような口調で言う神崎に濱田は少し気が楽になった。やはり相方にはいつもの調子でいてもらわないと、やりにくい。
 鑑識の連中を乗せた車は、岬を大きく回って海岸沿いの国道を来るため二十分は余計に時間がかかるだろう。神崎の言うように、もたもた下りていたのでは意味がない。覚悟を決めて一歩ずつ石段を踏み、なるべく視線は足下に置くようにした。と、突然、前を行く神崎が立ち止まり、危うく背中にぶつかりそうになる。
「濱田さん、叢雲学園です」
 濱田が顔を上げると、黒く切り立つ岸壁を背後に月明かりに浮かび上がった白亜の要塞が、そこにあった。


 出迎えた所轄署の警官に案内されて濱田が現場である美術室に入ると、姿を認めた意外な人物が挨拶の手を上げた。
「おう、濱田。久し振りだな」
「随分と大所帯で来たものですね。それも鍋島署長、自らですか?」
 親しげな笑みを浮かべ、鍋島は濱田に歩み寄る。
「つい、自分で現場を見たくて出向いたものでなぁ。皆が付いてきてしまったのだよ」
「……やはり、そうですか」
 濱田には、直接捜査に関わりたいという鍋島の気持ちが汲み取れた。
 県警の応援を頼む事件など無いに等しい一市三町一村を管轄区域に持つ一〇〇余名の警察署で、現在、鍋島は署長を勤めて三年になろうとしていた。だが、千葉県警に在籍していた警部補時代、濱田の上に立ち捜査の陣頭指揮を執っていたのは他ならぬ鍋島であったのだ。
「ところで、そこの若いのは?」
 鍋島が入り口を顎で指すと、そこに所在なさそうに立っていた神崎が会釈した。
「相方の神崎ですよ、この事件は担当外ですが」
 手招きに応じて神崎は鍋島に向かい合い、気さくな笑顔で差し出された手を、遠慮がちに握った。
「神崎です、よろしくお願いします」
 背の高い、この若い刑事を観察するように鍋島が見つめると、居心地悪そうに目を逸らす。
「ああどこかで会った気がしたと思ったら、君はこの学園の生徒ではなかったかな」
 鍋島の言葉に、濱田は眉をひそめた。
「何だ、そうだったのか。それならそうと、何故早く言わなかったんだ?」
「……申し訳ありません」
 不機嫌そうに詰め寄られて、神崎は慌てて謝罪した。鍋島が覚えていたと言うことは、恐らく当事者として事情聴取された事があるのだろう。同じく捜査に加わっていた濱田に覚えがなかったのは、それぞれ別の被害者の身辺調査をしていたためかもしれない。神崎がふさぎ込んでいた理由がわかって、濱田は溜息をついた。
「それにしても署長、ここには署の半分くらいの人間が来てるんじゃないんですか? 余計なことを言うようですがこれほどの人数は……」
「うむ、そうだな、後は君に任せて引き上げるとしよう。署が空になっていては何かあったときに困るからね」
「わかりました。後で伺います」
 鍋島は現場を管理するための警官を数名残して、その場を後にした。

 鍋島を見送り、濱田は神崎に発見者である学生を呼んでくるように命じた。
 連れてこられた二人の男子学生のうち一人は、いかにも運動部で体を鍛えていると思われる格好のよい体格で、程良く日に焼けた褐色の肌と端整な顔立ち、意志の強そうな瞳の持ち主であった。立ち姿の姿勢の良さ、身のこなしからおそらくは武道、それも剣道をかなりやっていると濱田には一目でわかった。
(そんなに挑戦的な目で我々を睨むこともないだろうに……)
 警官を威嚇するかのような目は、もう一人の男子学生を守らんとするがためなのか? 
(どうやら第一発見者はこっちらしいな)
 もう一方の学生は、背の高さはそれほど変わらないが少し小柄に見えるのは細身の身体のためかもしれない。色白で不健康そうな高校生が濱田は苦手だった。特に顔立ちが綺麗な男など話しかけるのに気後れしてしまう。しかし彼は濱田が心配するようなタイプとは少し違うようだった。確かに女のような綺麗な顔立ちはしているが、その瞳からは男らしい気概が強く伝わっていた。
「長いこと待たせて、悪かったね。君が……篠宮君かい?」
 第一発見者と目星をつけた少年に濱田が話しかけると、もう一人の少年が彼の前に進み出た。
「篠宮優樹は俺です」
「うん? では君がこの……」
 死体と言いかけ、その生々しい表現がこの場にそぐわない気がして濱田は口ごもった。
「石膏像の……中の物を最初に見つけたわけだな。では篠宮君、そのときの状況を、すまないがもう一度話してもらえるかな」
「待ってください、最初に死体を見つけたのは僕です」
 口を開こうとした優樹の前に、遼が進み出る。
「ああ、君が……秋本遼君か」
 濱田は最初の報告を書き留めた手帳に目を通した。この名には、確か覚えがある。
「違う、石膏像を割ったのは俺です!」
 濱田の思ったとおり、篠宮優樹という少年は秋本遼を庇うつもりだったようだ。なおも言い張ろうとする優樹を手で制し、濱田は苦笑した。
「まあ、待ちたまえ。いいかね、何も君たちを容疑者扱いしてるわけじゃないんだよ。この死体が見つかった状況だけ話してくれればいいんだ。それじゃぁ……秋本君から話を聞こうか」
 石膏像を見つけ、それを引っ張り出して床に落とすまでを遼は訥々と話し始めた。その間、優樹は落ち着かない様子で遼と濱田をかわるがわる見つめている。濱田には、その様子の方が気になった。何か知られては困ることがあるのか? それは優樹と遼、どちらにとってなのか? 
 この年頃の子供にありがちな好奇心から、見慣れない物に手を出し誤って壊してしまった。たまたま、そこにあるはずのないものがあったことが彼らにとって不測の事態を招いてしまったのだが、ましてや男の子のすることである、取り立てて隠さなくてはならない何かがそこにあるようには思えない。しかし、彼らの様子はどこか不自然だった。
(秋本遼か……。いずれにせよ十二年前の事件を彼らが知っていたとは思えんな)
 遼の話を聞き終わって濱田が腕時計を見ると、針は既に九時を回ろうとしている。
「すっかり遅くなってしまったな、ご両親も心配しているだろう。まだ何度か話を聞くことになるかもしれんが、協力をお願いするよ。おかげで十二年ぶりに犯人を捕まえられるかもしれないんだ。おい神崎、この子達を家まで送ってもらってくれ」
 廊下で教師から話を聞いていた神崎が、濱田のところに駆け戻った。
「あの、篠宮君の保護者の方が迎えに来ているようですが……」
「保護者?」
「彼が下宿している家の主人で、ペンションを経営している田村という方です」
「ああ、『ゆりあらす』の御主人か。……田村さんにこの子達を預けたら、明日夕方くらいにそちらに伺うと伝えておいてくれ」
「はい、わかりました」
 神崎は二人と連れだって廊下に出た。
 さほど待たずして到着した鑑識の人間が、塵一つ逃すまいと舐めるように床に張り付き現場を調べている。だが石膏像の破片の他に何が見つかるというのだろう。いくら念入りに探そうとも徒労に終わることは目に見えていた。
 石膏像と見つかった頭部を慎重に箱に収め、運びだそうとした若い鑑識の一人に濱田は声をかけた。
「早かったじゃないか」
 彼はにやりと笑い返す。
「親父さんにハッパをかけられました」
 鑑識課の課長、井之川と濱田は懇意の中だ。
「イノさんに、よろしく言っといてくれ」
「わかってます、何としても手掛かりを見つけますよ」
 謝する気持ちを握った拳に込めて、濱田は鑑識を見送った。

 通路に出た神崎は、少し離れた先で彼らを待っている四十代半ばの男性に会釈した。
「今日はいろいろと大変だったね。かなり疲れたと思うけど、我々が長いこと探している殺人犯逮捕に繋がる重要な証拠が見つかったんだ。これからも協力をお願いするよ。それから……」
 上着の胸ポケットから手帳を取りだし、私製の名刺を二人に手渡す。
「ここに僕の携帯番号が書いてあるから、警察に来て話すほどでもないような小さなことでも、何か思い出したら教えてくれるかい」
 黙って名詞を受け取った遼と優樹を迎えに来た保護者に渡して、神崎は美術室に戻ろうとした。教室から出て来た鑑識に道をあけ、ふと証拠の収められたアルミ製の箱に目を留める。そういえばまだ、死体をよく見ていなかったな、と、鑑識を呼び止めようとしたその時……。
 突然、眼前が昼間のように明るくなり、足下に冷たいものを感じた。見ると、自分の足が膝の上まで水に浸かっている。
『見ないで……』
 確かに後ろから、女の声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
振り向くとそこには、何もない。ただ、呆然と神崎を見つめる秋本遼の姿があった。
「今の声は……君が?」
 遼は首を横に振る。
「ああ、そうだね……。そんなはずはない」
 一瞬の幻は、跡形もない。だが聞こえた声は、確かに彼の知る少女の声だった。
(どうかしてるな、俺は) 
 神崎は寂しげに笑って、何でもないと言う仕草で遼に手を挙げた。