〔二章〕
     ―1―

 神崎という若い刑事に話したことは、直接事件とは関係のないことであったし、誰にも聞かれなかったため優樹は敢えて言う必要はないだろうと思っていた。取り立ててやましいことをしていたわけではないのだが、知られるとちょっと困る。
 この学園の卒業生だという神崎に、優樹は少なからず好意を持ち始めていた。他の刑事に比べ、階級が下の者に対しても居丈高なところがまるでなく、優樹や遼と話すときはきちんと対等に話してくれる。今時の青年らしい気の利いた薄いグレーのスーツに、派手ではないが明るめの細いネクタイが品よく似合っていた。優樹には姉が一人いるが、こういう兄がいたなら良かったのにと思う。
 放課後、岡田と連れ合って、優樹は写真部の部室に顔を出した。
 カメラを磨いたりフィルムや写真の整理をしている部員の机から離れ、隅に並べたパイプ椅子上で顔に白いハンカチを載せて寝ている学生がいた。二人は並んでその前に立つ。
「アキラ先輩すみません、俺のせいで……」
「うん、何の事かなぁ?」
 優樹の言葉に、寝ていた学生はそのままの姿勢で答えた。
「あの、刑事が来ませんでしたか、先輩のところに」
「おまえ、面白いもん見つけたんだって?」
 顔にかかったハンカチを取り、須刈アキラがにやりとすると、優樹は少しむっとした顔になった。
「そんな顔することたぁないだろ? 刑事ならさっき部室に顔出したけど、何も聞かれてないぞ。なんだ、エロ本見てたことばれたのか?」
 きまり悪そうな優樹にアキラが笑った。
 三年生のアキラは、本来ならば今年この学園を卒業しているはずだった。それが出来なかった理由は、三年生の夏休みに撮影旅行の目的で訪れたアメリカから帰国予定日を過ぎても帰らなかったためである。消息も掴めないまま年が明け、この春ようやく帰ってきたのだが、今までどうしていたのか両親をはじめ誰にも語ろうとはしなかった。友人達には「異星人に拉致されていた」と答えているようだったが、もちろん信じる者などいない。
 パイプ椅子から体を起こし、アキラはゴムで結わえた長い髪を結びなおした。
「秋本は一緒じゃないのか?」
 優樹に付き合い何度か顔を出してるうちに、遼もすっかりこの部室の常連になっていた。
 給湯設備の整ったかなり広い部室には、歴代の部員の作品が飾られているが、その多くはそれなりに名を知られた写真家となっている。またこの写真部から報道関係に進む者も多く、由緒ある写真部として学園からも一目置かれていた。現在の部員は十五名ほどだが、いつも部員以外の男子生徒が数人たむろして、おもいおもいの時間を好きに過ごしているのだ。
「秋本は、暫く休むかもしれません」
 優樹に代わって岡田が答えた。
 岡田と優樹は中学時代から一緒で、互いに悪友と自認している仲だった。余計な事は何も言わないが、おそらく優樹が今、遼のことに触れられたくないと知っているのだ。あまり遼との付き合いを快く思ってはいないようだが、だからといって、つまらない軽口を叩いたり詮索したりしない。そこが優樹にとっては有難かった。
「ま、一杯飲んでけよ」
 アキラが、自らコーヒーを沸かすために立ち上がった。

 須刈アキラが、アメリカで知り合った友人から送ってもらっているというキューバ産コーヒーは、酸味や癖が少なくほのかに甘い。このコーヒーのファンは教師の中にもいるくらいで、譲って欲しいと言われれば誰にでも気前よく豆を譲っているようだった。アキラ自身が他人にコーヒーを入れてくれることなど滅多にない。しかしそれは、誰にもだせない味と香りで心の奥底までいやされる気分にさせてくれるのだった。
 優樹は熱いコーヒーを口にして、背中がふっと軽くなった気がした。ミルクと砂糖をいつも入れる事を以前岡田から聞いていたアキラは、用意が無くて悪いね、と、少し薄めに入れてくれていた。
「先輩、俺、遼に悪い事したと思ってるんだけど……なんかさ、関係ないって言われたんだ。それで……」
「あー、面白くないわけね」
 素直に優樹は頷く。優樹自身、何故自分が面白くないのか解っている。だがどこかでそれを認めたくはなかった。いつもなら叔父の田村が話し相手になってくれるのだが、今回のことで遼の話を切り出すのはなんとなく躊躇われる。しかし誰かに話さなければ冷静になれそうもなかった。
 普段から二人の関係を見ているアキラには、土曜日の事件がどういった波紋を彼らに起こしたのか用意に推察できたらしい。意味深に笑われて優樹は動揺した。
「で、おまえはどうしたいんだ?」
「どうって言われても……」
「力になりたいんだろ?」
 言われたとおりだが、遼から拒否されているのだ。返答できずにいると、アキラが困ったように笑った。
「ホント、篠宮は気が短い。もう少し秋本が落ち着くまで待ってやれよ。そしたら自分に何が出来るか、ヤツがどうして欲しいか見えてくるんじゃないか?」
「でも……」
「やれやれ、うっとおしいのはらしくないぜ。少し身体、動かしてこいよ。おまえに必要なのはまず自分を取り戻すことさ」
 確かに、考えていても仕方のない事だった。何をしたいのか、何が出来るのか、わからない。でもきっと、力になれる時が来ると思い至って、優樹はカップを置き席を立った。


 司法解剖とDNA鑑定の結果が出て、発見された頭部は榊原江里香のものだと確認された。知らせてくれたのは遼が初めて会う男性で、母親の前夫であり自分とは血の繋がりのない、江里香の父親だった。
 その男性、榊原繁明は、葬儀の間も心ない噂に耐える母をとても良く気遣ってくれていた。しかし、この場に遼の両親と江里香にとっての両親、そして江里香の実父の家族が同席している光景は、なんだか不思議に思えた。
 ただ、これをきっかけに不仲だった遼の父と母が、再び同居することになったのは幸いなことだった。
 一週間後、遼は学園の寮に戻ってきた。家から通うように母親に懇願されたのだが、自分がいない方が母親の負担も軽くなる分、父親との距離も縮まるだろうと思ったのだ。気丈だと思っていた母の弱々しい一面を目の当たりに見て、少しショックを受けた事もその理由にある。やはり父には、母のそばにいて欲しかった。
「自分なら大丈夫だから」
 遼はそう言って学園に帰ってきた。田村や優樹がいることが少し両親を安心させたらしいが、心中は穏やかではない。
(多分まだ、怒っているんだろうな)
 優樹には、自分の気持ちを十分に説明できなかった。次々と明らかになる知られざる真実に戸惑い、どうしたらいいのか解らなかったのだ。そんなときに不用意なことを言ってしまって、正直なところ後悔していた。
『関係ない』
 冷たく突き放す言葉だ。優樹が怒るのは当たり前だった。

 普段通りに登校してきた遼を、クラスメイト達は遠巻きに見ているだけで誰も話しかけてこない。いつもなら隣のクラスから真っ先に駆けつけて来てくれる優樹の姿がないのは、やはり辛かった。
 四限目の授業が終わり、学食や売店へと、ほとんどのクラスメイト達は教室から出ていった。屋外で弁当を広げることにしたのか、クラスで三人しかいない女生徒達も、ちらりと目を向けて足早にいなくなり教室には遼一人が残された。
 学生寮から通う遼は、普段は学食に行くか売店で買ったパンを写真部の部室で食べるかしていた。しかし今日は昼食を取る元気はなく、深い溜息をついて机に顔を沈める。
「おい」
 その声に驚き振り返ると、両腕を組んで不機嫌そうに立っていたのは優樹と同じクラスの岡田悟だった。
「何か用?」
 少しばかりの失望と共に、不審な眼差しで相手を見る。
「放課後、写真部まで来いよ。必ずだぞ」
 返事を待たずに岡田は教室を出ていった。

 岡田が遼を快く思っていないことは、知っている。しかしそれは優樹の律儀な正義感のためであって、遼の責任ではないのだ。
 写真部に向って歩きながら、ふと、遼は考えなおした。では都合のいいように優樹に助けてもらっていながら、関係ないと突き放した自分はどうなのだろう? 
(僕は卑怯だ……)
 単純で一本気の優樹と違い、おそらく岡田は遼が優樹を時に煩わしく感じていた事に気付いていたのだろう。
 岡田の呼び出しに不安はあった。しかし逃げたくはなかった。

 昼までの青空とはうってかわり、五限目に入った頃から重い灰色の雲が海上の方から広がり始め、とうとう放課後になって細かい雨が降り出してきた。
 教室のある南棟から渡り廊下で繋がる西棟は、一階が各科目教室、二階は図書室と自習室になっていて、三階に文化部の部室があった。
 学園が創立されたときに新築された南棟と違い、西棟は元々あった学校を改築したものだ。設備は良く整っているが、外装は明治初期の建築様式で和と洋の融合した美しい建物である。新築校舎も似た造りに建てられているが、やはり本物にはかなわなかった。
 しかし凝った装飾の手摺りや年代物の美術品のある階段や廊下は、今日のような雨の日には暗く気味の悪いものでしかない。そこを三階まで上ること事を嫌う学生は、外にある螺旋状の非常階段を使っていた。
 普段は遼も非常階段を利用していたが、風が強くなってきたため濡れることを避けて屋内の階段を重い足取りで上っていく。吹き抜けになった天井を仰ぐと、高いところにある幾つかの明かり取り用の窓から暗い空が見えた。
 階段を上りきったところから部室が近づくにつれ、アキラがコーヒーを入れているのが通路に漂う香りで解った。それがなければ部室に入るまで、暫くドアの前で迷っていたに違いなかった。
 ドアを開けると常連の何人かが軽く手を挙げ挨拶をしたが、その中に岡田はまだいなかった。
「彼ならまだ来てないよ」
 いつの間に後ろに立ったのか、肩越しにアキラに声をかけられ遼は心臓が止まるほど驚いた。
「え、岡田まだ来てないんですか?」
「岡田?」
 ああ、と、アキラは笑った。
「ヤツは今日、多分来ないよ。昼休み部室に来てた岡田に、君達へのことづてを頼んだのは俺」
「君達って……?」
「悟、いるか?」
 入り口から大声で岡田を呼んだ優樹は、アキラと遼に気付いて一歩後ずさった。が、気を取り直したように無理に笑う。
「よっ、よう! おまえ、今日来てたんだ?」
 そのわざとらしさにアキラがあきれ顔で手招きした。
「いいからさ、こっち来いよ。面白い話、聞かせてやるから」

 出所は聞かないでくれ、と、前もって口止めしたところを見ると、おそらく教師の誰かからコーヒー豆でも餌に聞き出したのだろう。アキラの話は石膏像についての詳しい話だった。
「あの石膏像は、この学園を三十年前に卒業生した行田康平という陶芸家が、二年前に送った物だと事務の記録から解ったんだ。現在、飛騨で自分の焼き窯を持つ彼から警察が話を聞いたそうだが、石膏像は造ったこともないし送った覚えも無いという。学生時代から専攻は陶芸のみで、ブロンズ像、石膏彫刻の制作どころか人物は全く対象外だったらしい」
 遼と優樹は顔を見合わせた。
「事件の犠牲者を偲んでと、手紙が添えられていたそうだけど……あまりにも行方不明の女子学生にそっくりで、気味悪がった先生方が地下の倉庫に片づけてしまったんだ」
 興味深そうに、優樹が身を乗り出した。
「警察に、届けなかったんですか?」
「届け出は出したそうだ。だけど当時、行田氏は丁度海外に長期で勉強に行っていて、確認を取らないまま今まで放置されてしまったらしい。添えられていたという手紙も見つからないそうだが、警察の調べでは完全に無関係のようだね」
「じゃあ、二年前に確認がとれてれば……」
 遼の言葉にアキラが頷く。
「もっと早く、お姉さんは見つかっていたかもしれない」
 息苦しさを覚えて、遼は両手で顔を覆った。不可能だったとわかっていても、何故もっと早く見つけてあげられなかったのかと自分を責める。心配する優樹の視線を感じたが、顔を向ける事は出来なかった。
 間を置き、遼の様子を伺いながらアキラは話を続けた。
「何しろ十年も経ってからだったし、証拠としての価値が薄いと思われたんだろう。でも犯人は見つけてもらいたくて、わざわざ倉庫から美術室に石膏像を運んだんじゃないかな?」
「えっ? 何でそんなことを……?」
 解らないといった様子で首を傾げた優樹を、面白くてたまらないといった顔でアキラは見たが、遼の気持ちをくんだのか、すぐに平静な表情に戻った。
「殺人の時効がさ、確か十五年なんだよね。十年経っても捕まらない犯人は、自分のしたことを思い出して欲しかったんじゃないかな?」
「そんなん、許せねぇよ!」
 いきなり優樹は立ち上がり激しく拳を机に叩きつけた。その勢いでコーヒーカップがひっくり返る。
 今、自分が言いたかった言葉を先に言われ、遼は驚いて優樹を見た。顔を紅潮させ本気で怒っている優樹に、一瞬自分の怒りを忘れそうになる。ヴィジョンを視るようになってから、いつしか遼は素直な感情を表に出すことが出来なくなっていた。だからこそ気持ちを代弁するかのように、ありのまま感情的になれる優樹にいつしか小さな泡立ちのような焦燥感を抱くようになったのだ。しかし今更、簡単に自分を変えることは出来ない。
『関係ない』
 傷つけると解っていて、妬ましさから口をついて出た言葉だ。そうだ、自分は優樹が妬ましかったのだ。
「おいおい、おまえが熱くなったら秋本が困るだろう」
 交錯する感情に言葉を見つけられない遼に、アキラが助け船を出した。
「あっ、悪ぃ。こういうトコが良くないんだよな、俺が先に熱くなるから……」
「ずるいよ……何で君が謝るんだよ。……やめて欲しいんだ、もう」
「えっ?」
 遼は立ち上がると上目使いに優樹を睨んだ。その目に、今にも涙が溢れそうになる。
「いつも……そうだ。いつだって君が表に立つから、僕は何も言えないんだ! 今まで僕は、ずっと君に庇ってもらってきた……だけど頼んだ訳じゃない! 僕はもう……庇ってもらわなくてもいい。そうでなかったら、いつまでたっても君と対等になれないじゃないか!」
 一瞬、優樹は狼狽えたように目を見開いた。そして、次に浮かべた困惑の表情が、心なしか悲しそうに見えて遼は息を飲む。だが、思い違いだ、と、気を取り直した。優樹がそんな顔になる理由など、無いはずだ。
「なんだよ……それ。おまえ、ずっと、そう思ってたのかよ……! 信じらんねぇ……! そんな事考えながら、俺と一緒にいたのか? 一言も、言わなかったじゃないか。だって俺は……」
 思いもよらない優樹の態度に、反論の言葉を用意していた遼は戸惑った。怒鳴られると思っていた、だが負けずに言い返すつもりだった。幼い頃から喧嘩らしい喧嘩をした覚えがない。たとえ決別を覚悟しても、今、言わなければならないと思ったはずなのに……。
「ごめん、僕はただ……」
 次の言葉が見つからずに、遼も黙り込む。
「まあ、まあ、まあ、落ちつけよ二人とも」
 見かねてアキラが間に入った。
「良かったねぇ、止めてくれる人がいて。でなきゃまた、物別れだ。それにしても初めて見たなぁ、秋本が激高するところなんて。結構かわいい顔、するじゃない」
 勢いを削がれた遼が赤面する。
「痴話喧嘩は後にして、とりあえず俺の話を最後まで聞いて貰いたいんだけど?」
 雑巾片手に困り顔をしているアキラに諭されて、二人はおとなしく椅子に座り直した。


 この学園には、何層にもわたる地下通路と秘密の地下室が存在する。そんな噂が囁かれ始めたのは、二次大戦後まもなくの事だった。現在に至っても、戦時中の捕虜収容所だとか、人体実験室だとか、まことしやかに学生達の間で囁かれ、話を聞きつけたワイドショー番組が調査に入ったことさえある。しかし何ヶ月調査しても、その痕跡を見つけることはとうとう出来なかった。
 しかし、学園の地階は確かに存在し、実のところは倉庫と防空壕に使われていたらしい。大半は重い鉄の扉に頑丈な閂が掛かり立入禁止となっているが、幾つかは学園の倉庫代わりの不要品置き場となっていた。閂の向こうに何があるのか、それを知る者は今や誰もいない。
「二人とも、石膏像をしまい込んだ地下倉庫がどこにあるか知ってるか?」
 アキラの質問に優樹は首を横に振る。しかし遼は知っているという顔で頷いた。
「秋本は美術部だから、倉庫に資材を取りに行ったりする事もあるだろうが、運動部の篠宮のように用がない限り誰もが倉庫の場所を知ってるわけじゃない」
「どこにあるんですか?」
 ふてくされ気味に、優樹が聞き返す。
「体育館のステージ下に地下倉庫に繋がる入り口があるんだ。倉庫はそこを通った裏の断崖の中にある」
「えっ、やっぱり秘密の実験室とかが……?」
「それはどうか解らないが、結構奥行きがあって長い廊下づたいに使途不明の部屋が幾つかあることは本当らしいよ。残念ながら倉庫から先には行けないようになってるけどね」
 噂を耳にしていたのだろう、がっかりした様子の優樹にアキラが笑う。
「いずれにしても、倉庫に使用されてる部屋は三部屋あるし、それなりの広さがある。犯人はどうやって石膏像がしまわれている場所を知ったんだろう? 何故誰にも知られずに持ち出し、美術室に運び込むことが出来たんだろう?」
「学園の関係者がやったんじゃないかって、言うんですね」
 遼の言葉にアキラは微笑んだ。
「まっ、そういうこと。少なくとも学園の事をよく知る人間、もしくは協力者がいるかだな。興味ないか?」
「先輩は、犯人探しをするつもりなんですか?」
 優樹が再び身を乗り出す。
「いやぁ俺は単に好奇心からなんだけどね、実はうちのOBに県警の報道部の人間がいてさ、この事件に関して何かネタがないかって言われてるんだよ。それで今日これから、佐野と倉庫に行って写真でも撮ってこようと思ってるんだ。どうかな、君等も行ってみないか?」
 興味をそそられたらしい優樹が、何か言いたそうに遼を伺い見た。倉庫に行ってみれば、何かが解るのだろうか? もしかしたら、また何かが見えるかも知れない。出来れば見たくはないし、恐らく優樹もその事を心配しているのだろう。それでも姉を殺害した犯人の手掛かりを見つけられるのなら行ってみようと、遼は決意した。自分の事は、自分で解決してみせると決めたのだ。
「……行きます」
「おっ、俺も!」
 うつむいたまま考えていた遼が顔を上げて答えると、優樹も慌てて同意した。
「OK、んじゃあ決まりっ……と」
 アキラは足下のカメラバックを肩に担いだ。


 文化祭で写真展示に使うパネルを取りに行く名目で、倉庫の鍵を職員室から借りた佐野和紀が、一足先に体育館のステージ脇で待っていた。
「待ちくたびれて、眠くなった」
 大きく欠伸をした目に涙が滲んでいる所を見ると、どうやら本当にうとうとしかけていたらしい。
 いつもくだらない冗談を飛ばし半ば皆に呆れられている佐野だが、どういう訳かアキラとは気が合うようだった。アキラは佐野よりも年齢的に一年上であったが、気兼ねするところは全くなく対等な物言いをする。部室で話に出た県警報道部にいる写真部OBは、佐野の叔父に当たる人物だった。
 ステージの上では文化祭の公演に向けて、演劇部が熱の入った練習をしていた。下手から階段を下りた広い控えの間には、山のような衣装や大道具小道具が所狭しと置かれてあり足の踏み場も無いようだ。どうにかその場に居場所を作り、アキラは辺りを見渡した。
「おーい、藤堂いるか?」
 アキラの呼びかけに答えて、大道具の影から縁なし眼鏡を掛けた少し小柄な学生が、台本を片手に姿を現した。演劇部副部長の藤堂光樹である。
「あれっ、アキラさん。俺に何か用ですか?」
「ちょっと聞きたいことがあってねぇ。忙しいトコ悪いんだけど、今いいかな?」
「ええ、かまいませんよ」
 むろん藤堂も美術室での事件を知っていて、アキラの後に立つ遼と優樹を見つけると興味津々といった様子で近付いてきた。
「君達だろ? 美術室で死体の入った石膏像を見つけたのは。その時の様子を、よかったら教えてくれないか? 是非参考にしてシナリオを書いてみたいんだけど……」
「待った! おまえが仕事熱心なのは良いけど、当事者の気持ちに配慮できないようじゃ良い脚本家にはなれないと思うけどなぁ。」
 遮るように前に立ったアキラに言われて、はっ、と、思い至った藤堂は決まり悪そうに頭を掻いた。
「やあ、そうでした……つい、興味本位が先に立ってしまって。悪かったね、二人とも」
「いえ……大丈夫です」
 遼は小さく応えたが、優樹は不機嫌そうにそっぽを向いている。
「それで、聞きたい事って何ですか? 出来れば手短に頼みます、実は美術室の一件で台本に手直しが必要になっちゃって……。もう日もないのに大変なんですよ」
「まあ、そう、ぼやきなさるな。あの二人に責任はないんだし、手直しが必要な題材を選んだのはおまえなんだろ?」
 アキラと同じ三年で、演劇部では脚本と演出をしている藤堂も、他の生徒同様にアキラを「さん」付けで呼んでいる。
 演劇部の今年の文化祭公演は『スローターハウス5』というSF小説を題材にしたものなのだが、タイトル和訳の「屠殺場」という名が教師間で問題になり、公演を中止するように言われてしまったのだ。しかし演劇部員とOBが説得に当たり、タイトルと脚本の手直しで、どうにか公演が許されたのだった。
「アキラさんには敵わないな。聞きたいことって言うのは大方、警察に話した夏休みの練習のことでしょう」
「ご明察」
「やれやれ、その物好きな性格が災いして留年することになるんですよ」
 ズボンのポケットから手帳を取り出した藤堂は、几帳面にも夏休みの練習を全て記載していたようで、練習に来ていた生徒名と時間が事細かに記録してあった。それによると、ほぼ毎日のように誰かがこの体育館に来ていたらしい。
「揃っての練習は平日午後からで、ヘタをすると夜の九時、十時なんて事もありました。でもコーラスやダンスの連中は休日や午前中に自主練習してたし、運動部と掛け持ちの多い大道具小道具の奴らなんかは早朝に集まってましたよ」
「と、なると、誰もいないのは深夜だけか」
「聞き込みにきた刑事さんも頭を抱えてました。深夜倉庫にはいるには、学校の鍵、職員室の鍵、体育館の鍵、倉庫入り口の鍵、四つの鍵がいりますからね。正門からはいるのは無理ですが、裏門からは塀を乗り越えられないこともない。その現場検証もしてたようですよ。でもやっぱり……」
「そういうことだろうねぇ」
 外部の人間ではないと、アキラは確信したようだった。
「俺も実は現場検証に来たんだ、ちょっと倉庫まで行ってみるよ」
 お好きにどうぞ、と、藤堂は肩をすくめた。
 四人が控えの間から更に下に続く階段の影に消えたとき、衣装らしき軍服を身につけた、長身の女生徒が顔を出した。
「ねえ今、秋本遼がいたでしょう? あたし前から彼を演劇部に誘ってるんだけど、振られっぱなしなんだ。是非、秋本君にキュパリッソスを演じてもらいたいなぁ……ヒュアキントスでもいいけど。で、あたしがアポロンを演るの」
「倉持、おまえ部長だろ? その趣味何とかしろ」
 藤堂が言い終わる前に、長い黒髪の美女、倉持美沙都の姿はもう無かった。