―2―

 演劇部の控え室を出て、資材の入った段ボールを避けながら通路の行き当たりの階段を降りる。するとそこには、高さ3メートルはありそうな巨大な観音開きの鉄の扉があった。
「これ、俺達の力で開けられるのか?」
 力には自信があるはずの優樹が、心なしか不安そうに呟く。
「大丈夫だよ、下にレールと滑車があるから僕でも開けられる」
 応えた遼は、しかしステージ下の階段に降りたときから気分がすぐれなかった。血の気のない青い顔を、優樹が気が気でない様子で時々伺っているのがわかる。気丈に立ち回る自信が揺らぎそうになり、いつ倒れるやもしれないと不安が襲ったが、大見得を切った手前、気を強く持たなくてはと深く息を吸う。
 佐野が鍵を差し込み、カチャリ、という小さな音と共に簡単にロックは解除された。
「閂だと不便だから、数年前に簡単な鍵に付け替えたんだそうだ」
 アキラが取っ手を引き、こともなげに鉄の壁を動かした。
 すぐ右手にあるスイッチを入れて蛍光灯の明るい光が廊下を照らすと、緊張していたのだろう、優樹が小さく息を吐いた。
「もっと、不気味な感じかと思ってた……」
「部屋は壱号、弐号、参号。壱号は教材置き場で弐号が学校行事の用具置き場。がらくたの類は参号に置いてある。石膏像が置いてあったのも参号だ」
 床にしゃがみ込み、カメラバックを開きながら真面目な顔で優樹に説明するアキラが、気のせいか楽しそうに遼には思えた。佐野もいつの間にかカメラを手にしている。
 おそらく、この場所を倉庫にすることが決まった時点で扉は取り払われたのだろう、左手に入ってきた場所とほぼ同じ大きさの三つの入り口が並んで暗い口を開けていた。突き当たりには、一回り大きな観音開きの扉があり、古めかしい鉄の頑丈そうな閂が掛けられている。
 入り口から覗き見れば、比較的綺麗に整理してある壱号・弐号倉庫と違い、参号倉庫は確かにがらくた置き場と言ってよかった。目的の物を探すとしても、容易に見つけられそうにはない。
 乱雑に置かれた棚や、古いデスク、壊れた椅子。学園創立以前の物か、価値の判らない絵画。それらは整理も分類もされず、ただ静かに処分される時を待っているように見えた。
 忙しくシャッターを押す佐野と違い、アキラは入り口近くに立ち腕を組んだままじっと何かを考えているようだった。
(何を考えているんだろう?)
 初めて入る倉庫に、物珍しさから色々な物を手に取る優樹を横目に見ながら、遼はアキラの様子を不審に思った。部室での話をその場は納得できたのだが、時折向けられる探るような視線に居心地の悪さを感じて、何か他の思惑があるように思えるのだ。
 と、突然、遼の全身をぴりぴりとした鋭い痛みが貫いた。まるで電流が流れたように、全身の体毛が逆立つ。フラッシュする光景、眠るように横たわる少女、その首にのばされた男の手、そして……。
 金縛りにあったように動けなくなり、下肢から力が抜けていった。倒れる、そう思った時、すっと、後から優樹の手が身体を支えた。
「……大丈夫か?」
「う……ん」
 肩を貸りて近くにあったまともな椅子に崩れるように座り込む。
「何か……見えたのか?」
 両肩に置かれた優樹の手を、遼は振り払う事が出来なかった。今は、その手が心強く、気持ちを落ち着かせてくれる。情けないな、と、自嘲気味に心に呟いた。
「髪の長い、綺麗な人が……ここに倒れていた。その人を、誰か男の人が抱きかかえて……連れて行ったんだ。男の顔は、わからない……でも、女の人は姉さんじゃなかった……」
 背中を預けていた壁からゆっくり身を起こし、アキラは遼の前まで来ると膝を突いて顔を覗き込んだ。
「犯人は、見えなかったんだな?」
「先輩、あんた知ってたな!」
 優樹が、いきなりアキラに掴みかかると、その襟首を締め上げた。吊された身体が、宙に浮く。
「だから遼を、ここに誘ったんだろっ!」
 慌てて佐野が引き離そうと割り込んだが、力ではかなわない。
「よせっ篠宮! 須刈を殺す気かっ!」
 優樹は突き放すように、その手を離した。勢いづいてアキラは床に倒れ込む。
「大丈夫かよ、須刈」
 アキラは激しく咳込みながらも片手を上げ、佐野に応えた。
「まったく……勘弁してくれよ、何も締め上げなくてもいいだろう? ホント、死ぬかと思ったぜ……」
「どういうことか、説明してくれませんか」
 優樹の声は静かだが激しい怒りを含んでいる。アキラはやっと立ち上がると、壁際の棚にもたれかかり身体を支えた。
「説明? 秋本は、何かが見えるかもしれないと思ったから一緒に来たんだろう? なぁ、秋本」
 遼には何も答えられなかった。確かにアキラの言った事は当たっているが、まさか自分の持つ力を知って誘ったのだとは思わなかったのだ。憤りを抑えきれない優樹が、挑むようにアキラに詰め寄る。
「同じ中学の出身者が少ないこの学園では、遼のことを知ってる人間なんてほとんどいない。……まさか悟が?」
「おいおい、今の台詞、岡田が聞いたら泣くぜ。おまえ、ヤツがそんな男だと思うのか?」
 確かに、同じ中学校出身の岡田なら遼がいじめの対象となった理由を知っていても不思議はなかった。しかし、たとえ遼を嫌っていたとしても、決して中傷をするような男ではない。
「岡田は、余計な事を言わないよ……」
 遼の言葉に、ようやく冷静さを取り戻した優樹は決まり悪そうに顔を背けた。
「秋本の事は以前から少し興味があってね、学年一の秀才がどんなヤツか知りたかったし、まあ、色々と調べてみたわけだ。三年生にも、おまえらと同じ中学から来てる生徒は結構いるから例の噂も当然に耳に入ったよ。最初は眉唾もんだと思っていたが、何人もの話を聞くうちに次第に信じられるようになったのさ。……おまえと同じようにね」
 優樹は握りしめていた拳を開いた。アキラが自分の興味のために遼を利用したり試したりするつもりではないと判ったのだろう。
「……すみません、でした」
「まっ、いいさ。とりあえず拳で殴られずにすんだしな」
 慌てて両手を後手に隠した優樹に、遼は知らず笑っていた。

「秋本が見たのは、おそらく最初の犠牲者、山本葉月だと思う」
 そう言ってから少し咳払いをしたアキラの声は、まだかすれていた。
「当時、演劇部の部長だった彼女は長く美しい黒髪の持ち主で、ミス叢雲といわれていたそうだ」
 叢雲学園の演劇部は、代々女子学生が部長を務める習わしになっていた。美しく聡明で、長い黒髪を持ち、長身である事という、宝塚並みの厳しい条件を満たした者だけが、その座に就くことが出来るのだ。しかし、女子学生の総数自体が少ないこの学園では大抵無理な相談で、部長に相応しい女子学生がいない場合は部長不在のまま、実質副部長の肩書きを持つ男子学生が責任者となっていた。それでも、栄えあるミス叢雲になりたいばかりに入学する女子学生も時にはいるようで、現部長の倉持美沙都もそのうちの一人らしい。
「その三年生の山本葉月と並んで、当時はミス叢雲と称される女子学生があと二人いた。一年生の乾陽子と君のお姉さん、二年生の榊原江里香だ」
「なぜ僕が見たのが、その山本葉月さんだとわかるんですか?」
 遼はやっと落ち着きを取り戻した。犯人を知りたいという漠然とした気持ちが、なんとしても突き止めたいという決意に変わっているのが自分でもわかる。再び肩に置かれた手に気付いて遼が顔を上げると、物言いたげな視線と共に優樹はそっと、その手を離した。
「乾陽子の場合、崖から落ちるところをこの学園の生徒に目撃されていて、直ぐにボートや漁船を持つ人たちと警察が総出で捜索したんだ。しかし見つかった遺体には絞殺の後があって、警察の調査では村雲神社の境内で殺され崖下に落とされたと推察されている。山本葉月の場合は部活の後行方不明になり、学園から出た様子のないことから警察は校内が犯行現場との見方をしていた。もう一部の教師しか知らないが……この倉庫で遺留品が見つかって、殺害現場と断定されたらしいんだよ。首を絞められた痕はあったそうだが、直接の死因は薬物だそうだ。ただし、使われた薬品名は公表されていない」
 アキラは部屋から出るように三人を促し、電気を消した。
「部室で言った言葉は嘘だよ、この学園に殺人犯がいるかもしれないなんて冗談じゃないさ。本当は、秋本が何か犯人に繋がる手掛かりをくれないか期待していたんだ。噂の能力を確かめたい気持ちもあったしね……。君等を騙すつもりはなかったが、知っている事を隠していたのは悪かったと思っている」
「……いいんです、もう。先輩の言うとおり、僕も犯人が知りたい。そのためにこの能力が役に立つなら、かえって嬉しいくらいです」
 遼の言葉に、アキラは微笑んだ。
「なんだか逞しくなったなぁ、秋本。少し前のおまえなら、そうは言わなかったと思うが……篠宮は、どうだ? 犯人を捜そうとは思わないか?」
「俺は……わかりません」
 廊下の突き当たりにある扉に両手をついた優樹は、強気で強引な、いつもの様子とは明らかに違っていた。悔しいような、情けないような、そんなやり場のない気持ちが背中から伝わってくる。何を言えばいいのか遼は言葉を探した。今まで避け続けてきた内面の対立に、決別の言葉で突然終止符を打つ事など出来ようはずもない。しかし浮かぶ言葉は、どれも都合の良い響きにしか思えなかった。
「とりあえず、ここを出ようか」
 アキラが、小さくため息をついて踵を返した。
「優樹、僕は……」
 君に助けてもらいたいと、迷いながらも言いかけた遼は優樹の背に差し出した手を反射的に戻した。
 何か、青白い光のようなものが優樹のまわりを取り巻いているのが、遼には見えた。そして、それはまるで生き物のように姿を変えて、いまにも優樹の身体を扉の奥に引きずり込もうとしている。
「優樹!」
 怯えたような遼の叫びに、驚いて優樹は振り返った。その瞬間、青白い光は霞のように消えてなくなる。
「何だよ、急に大声出して」
「あ、うん……何でもない。あのさ、今更だけど君も力を貸してくれないかな、と思って」
 優樹は少し、意外そうな顔をしたが、
「何だ、そんなことか。……当たり前だろ?」
 そう答えて優しく笑った。


 階段を上りステージ下の控えの間に出ると、演劇部員達は帰り支度を始めていた。
「今日はもう上がりなのか?」
 アキラが藤堂の姿を見つけて声をかけた。
「雨が、結構ひどくなってきましたから。これ以上風が出てくると裏から帰れなくなりますからね」
 学園の裏から岸壁沿いにバス通りに出る石段は、湾の形が幸いしてあまり強い風を受けることはなかった。しかし事故を心配する学園側に裏門を閉められる前に外に出ないと、バス通りに出るため海岸沿いの道を一キロ近く歩かなくてはならないのだ。それを見越して女子学生は早めに帰るか迎えに来てもらう者がほとんどだったが、男子学生は寮に駆け込む者も多かった。
「おまえはどうするんだ? もう帰るのか?」
 演劇部副部長としての責任から、いつも最後まで残っている藤堂にアキラが心配そうに尋ねる。
「帰れなくなったら、アキラさんの部屋に泊めてください」
 笑顔で答えた藤堂にアキラは手で応じると、先に外に出た三人の後を急ぎ足で追いかけた。

 藤堂の言葉通り、体育館を出ると暗い闇の中から渦を巻くような風にあおられて、叩きつけるような激しい雨が降っていた。
「こりゃひどいなぁ。裏門はもう閉められたんじゃないか? 俺、親父に迎えを頼むわ」
 佐野は肩をすくめると、携帯電話を取り出した。
「優樹も、おじさんに迎えに来てもらった方がいいんじゃないか?」
 遼の言葉に優樹は首を振る。
「大丈夫だ、このぐらいならバイクで帰るさ。あまりひどくなるようなら降りて歩くから心配はいらないよ」
 じゃあな、と、手を挙げて優樹は雨の中に走り出した。鞄は教室に置いたまま、駐輪場に向かうつもりなのだろう。
 後ろ姿を見送る遼の頬に、雨が当たる。それは、過ぎ去ってしまった夏の名残をいつまでも追いかけてきた此の地が、確実に移り変わろうとする季節に抗うことを諦めさせるかのような冷たい雨だった。
「沈まない……太陽なんだ」
「うん?」
 家と連絡が取れてその場を後にした佐野を見送っていたアキラが、呟くような遼の小さな声に振り向く。
「篠宮のことか? なかなかうまいこと言うねぇ……」
 そう言ってから、全身が雨でずぶ濡れの遼の腕を強く引いた。
「おい風邪ひくぞ、鞄は部室か? 宿題なら寮のやつに教科書借りればいいんだから早いとこ帰ろうぜ」
 だが遼に、アキラの声は届いていなかった。両腕を雨の中に差し出し、伸ばしたその手の先の闇を見つめる。
「僕は……優樹の創り出す陰から出ることが出来ない」
「おまえ、馬鹿だなぁ」
 呆れたような口調でアキラはそう言い捨てると、遼の前に立ちその手を掴んで下に降ろした。瞬く間にアキラの髪とシャツが雨に濡れる。
「沈まない太陽が、羨ましいか? それがどういう事か、考えたことがあるのか? いい加減、被害者意識を捨てて、少しヤツの立場でものを見てみろよ」
 えっ、と、遼は顔を上げた。
「自分が、ヤツにとって必要なんだと考えてみたことはないのか?」
 思いもかけない言葉だった。
「そんなはず、ない……だって優樹は……」
 諦めたようにアキラは大きくため息をついた。
「いいさ、それなら。さあ早く寮に帰って風呂にでも入ろうぜ、すっかり冷えちまったからな。どうやら今夜はお客さんが多そうだ」
 体育館の出口には、数人の演劇部員が恨めしそうに空を見上げている。裏門を閉鎖すると校内放送が入ったのは、つい今しがただった。


 翌日は嘘のような快晴になった。紺碧の空は高く、雲ひとつない。風は夏の湿り気のある重いものから乾いた軽いものにと変わっていた。叢雲学園の白壁は昨夜の雨に洗われ、朝日を受けて輝いてみえる。
「よう、おはよう」
 教室に入る手前で、遼は優樹に呼び止められた。
「昨日は無事に帰られたの?」
「ん、ああ。なんとかな」
 みれば右手の肘に包帯を巻いている。
「怪我、してるじゃないか」
「大したことないよ。リアが滑って横滑りに一回転したんだけど、持ち前の機敏さで下敷きにならずにすんだからな。ちょっと擦りむいただけさ」
 そう言いながら笑った優樹は、いつもと変わらないように思えた。眩しいほどの笑顔だ。
「じゃあ、また放課後に写真部で。剣道部の方に出てから行くから、遅くなるってアキラ先輩に伝えておいてくれよ」
「あっ……」
 遼は何かを言いかけた。が、言葉が見つからない。いつも真っ直ぐに相手の目を見て話す優樹が、遼と目を合わせないままその場を後にする。遼の脳裏に昨夜のアキラの言葉がよみがえった。
(優樹にとって僕は……)
 常に自信に満ちている彼が、自分の行動に疑いを持つ事などあり得ないのではないだろうか? 誰かを必要とすることなどあり得ないのではないだろうか? 口に出して、聞いてみたい気がした。
(でも……そんなこと出来ない)
 自分の中にある優樹が、壊れてしまいそうで怖かった。


 事件の後、手を付けることが出来なかった文化祭用の作品を仕上げるために、遼は放課後美術室に向かった。事件の翌日は使用禁止になったが、既に普段の様相を取り戻し、文化祭に向けて部員達が自らの作品に取り組んでいる。
 周りの人間から異端の目で見られる事を避け、幼い頃から一人で絵を描いている事が多かった。画用紙に向かってさえいれば、他人からの干渉を受けないで済んだ。美術部は、そんな自分に向いている。デッサン画ならばなおのこと、自分の作品に向き合っていれば人と関わる必要がないのだ。
 期待したとおり、教室に入っても誰も遼に顔を向けない。もとより親しい友人が居るわけでもなく、いつもなら気にならないはずなのに妙に背中が寒かった。友人はいらないと思っていた、だがそれは、既に求めるものが手の中にあったからではないのか? 
「おう秋本、大変だったな」
 奥の作業机から、顧問の八街に神妙な顔で声を掛けられ遼は我に返った。
「……ご迷惑を、お掛けしました」
 八街は、気にするなという仕草で手を振る。
「まさか、こんな事になるとはなぁ……。それにしてもあの濱田とかいう刑事だが、しつこいの何のって同じ質問を繰り返し聞かれてね、正直、参ったよ」
 苦笑した八街も、どうやら警察に何度も事情聴取されていたらしい。
「先生は、何を聞かれたんですか?」
 遼はすぐに、神崎と名乗った若い刑事と一緒にいた体躯の良い五十代くらいの刑事を思い浮かべた。一見、刑事というより暴力団関係者といった風体で、短く刈り込んだ髪とダークカラーの上着、ノーネクタイの姿はどこかだらしなく見えたが、眼光の鋭さは強く印象に残っている。
「うむ……あの石膏像が、いつから美術室にあったか聞かれたんだが覚えがなくってなぁ。俺は元々備品の管理には疎いし、どこに何があったか、すぐに忘れるだろう?」
 確かに八街には少しルーズなところがあり、夏休み前にも倉庫の鍵をなくして大騒ぎになったことがあった。そのおかげでいつも成田に小言を言われているのだ。
「そう、そしたら成田先生がな、夏休み中にあれが棚にあるのに気が付いていたんだよ。だが倉庫に一人で片づけるのも大変だし、かといってあんな気持ちの悪いものをそのまま置いておくのもいやだからと布をかけて棚の下に置いたんだそうだ。おまえがその布に気付いたのは、清掃中に誰かがほうきでも引っかけて引きずったからだろうって話だ」
 石膏像を、成田智子が一人で倉庫まで運ぶことはおそらく無理だ。彼女は学園一小柄な教師で、遼と並んでも三十センチは身長差がある。正確な年齢は知らないが、三十代半ばながら遠目に中学生に間違えられたこともあるぐらいだった。その成田が石膏像を両腕に抱えた姿を想像すると、つい可笑しくなって遼は口元を押さえた。
「八街先生に、片づけてくれって頼まれなかったんですか?」
「それが、そのまま忘れていたと言うんだな」
「そう、ですか……」
 忘れていた? あの神経質な成田に限って、そんな事があるのだろうか? 
「文化祭用の作品は仕上がったのか? 秋本」
 するといきなり、横から美術部部長の三年生、来栖弘海が話に割り込んできた。
「いえ、まだ……」
「さっさと仕上げてしまえよ、たかがデッサン画一枚くらい。それとも忙しくてそれどころじゃないのかな?」
 来栖は誰に対しても常に上から見下すような言い方をするが、遼に対しては特にきつかった。おそらく再三モデルになってほしいとの申し出を、遼がすげなく断り続けているためだろう。そのために来栖が部長になってからは、遼に対してちょっとした嫌がらせをすることが度々あった。優樹は彼に対して「気色が悪い、近づくだけで逆毛が立つ」と、ひどく毛嫌いしている。
「おまえの方はどうなんだ? 間に合うのか?」
 八街の言葉に、来栖は口元を歪めて笑みを浮かべた。
「モデルが本意でなくてね、秋本が引き受けてくれてたらもっと仕事がはかどっているんだけど」
 陰湿な性格の来栖を嫌う者は他にも多くいたが、何故かその美術作品に対する評価は高い。今回、来栖の制作するブロンズ像はまだ鋳型の型どりが終わったばかりで、モデルは一年生の男子生徒らしかった。
「卒業前に、是非おまえの頭部像を創ってみたいね……きっと榊原江里香そっくりに仕上がるんじゃないかな?」
 来栖の手が伸び、遼の髪にふれた。
「貴様、下らん事を言うと……!」
 許さんぞ、と、八街が叱咤するより早く、遼は激しくその手を払いのける。
「へえっ、怒ったのか? 珍しいこともあるもんだな」
 遼が手を出すことなど思いも寄らなかったのだろう、来栖は少し驚いたように身を引いた。
「自分の世話は自分で見ろと、あのお節介な篠宮ママに言われたか? 良い傾向だね。まあ、モデルの件は考えておいてくれよな」
 来栖は嘲笑するように言い捨てて、自分の制作物の机に戻った。
「あいつの言うことは、気にするな。必要ならいつでも土・日に教室を開けてやるからな、いいようにやればいい」
「大丈夫です」
 微笑んだ遼に、気のいい八街は「そうか」と安堵の息をつくと、興味深そうにこちらを見ていた他の部員達に向かって、自分の仕事に戻れと大声で怒鳴った。
 八街の気持ちを有難く思いながら、遼は壁際からイーゼルを運びデッサン画を留める。しかしその手はいっこうに進まなかった。
 自分は確かに、少し変わったと思う。ただ諦めたように笑って済ませることが少なくなった。いや、済ませられなくなったと言った方がいいかもしれない。関わりのない事件ならば、そうはいかなかっただろうと改めて思う。
(姉さんのおかげ、なのかな……)
 窓から入る涼しい秋風が、優しい誰かの手のように頬を撫でた。揺れるカーテンのそばに、江里香が微笑みながら立っているのが遼にはわかった。


 遅くなって遼が写真部に赴くと、おそらく熊谷に練習を止められたのだろう、優樹の姿が既にあった。他には須刈アキラと岡田悟、そして何故か田村杏子が話に加わっている。いつもはこの時間でも何人かの男子学生がたむろしているのだが、アキラに追い返されたのか他に生徒はいなかった。
「あ、遼くん! 待ってたんだよ。今、アキラ先輩から話を聞いた所なんだけど、あたしにも何か手伝える事無い? 頭を使うのが苦手な優樹なんかより、絶対、あたしの方が役に立つ自信があるんだけどな。それに優樹ってば最近なにか考え込んじゃって元気ないし……どうせつまんない事だと思うけど、何悩んでるのか知ってたら教えてくれる? 母さんが心配してるんだ」
 どうやら杏子は、優樹の様子がいつもと違うことを心配する田村小枝子のために、自ら原因を確かめに来たようだ。無邪気な笑顔に、遼は針で突いたような胸の痛みを感じた。
「僕には……」
 返す言葉に詰まり、唇を噛む。すると、杏子から少し離れて座っていた優樹が立ち上がった。
「うるせぇよ、杏子。おまえ、これ以上余計なお喋りするんだったらとっとと帰れ。俺たちは遊びで集まってる訳じゃねぇんだ」
 抑えた声だったが、杏子はびくりと身を縮める。
「な、何よ! だって最近、優樹がいつもと違うから……」
「同じだよ、だから余計な心配はいらないって小枝子さんにも言っといてくれ。それより今日、自転車で来てるんだろう? 外暗くなってきたから、もう帰った方がいいんじゃないか? おまえの方が心配かけるぞ」
「イヤよ! あたしだって関係者だもん、のけ者にしないでよっ!」
 負けじと杏子は、優樹にくってかかった。
「それは、どうかと思うけど……」
 優樹が困惑の表情を浮かべると、すかさずアキラが助け船を出した。
「いいんじゃないの? 結構女の子のカンが役に立つことも多いんだぜ。帰りは篠宮が、バイクで伴走してやればいいんだし」
「ええっ! ママチャリと並んで走るのなんか、冗談じゃないですよっ!」
 迷惑そうに顔をしかめた優樹を、杏子がしたり顔で見上げる。
「あら、安全運転でいいでしょ? 昨夜転倒して右手をかなり痛めたのに今日は無理にバイクで来たりして……ホントはアクセル開くのやっとなんじゃない? 部活の時も左手片手素振りしかしてなかったの、弓道場から見えたわよ」
 杏子が所属する弓道部は、剣道部と同じ武道館で練習している。優樹の事が心配で、ずっと見ていたに違いなかった。
「余計なこと、言うなよ!」
「何よ、心配してるんじゃない!」
「だからっ……!」
 優樹が、ちらっと遼を見た。
「酷く、痛めたの?」
 かすり傷と聞いた遼が心配になって気遣うと、「何でもねぇよ」と言って優樹は顔を背ける。遼には聞かれたくないらしい優樹の様子を、ようやく杏子も悟ったのだろう。
「あのっ、優樹にとっては大したこと無いんだよ。こいつ、身体だけは丈夫に出来てるから……」
 取り繕うように、小さく呟いた。
「それじゃぁ、そろそろ本題に入ってもいいかなぁ? ご両人」
 三人のやり取りを、面倒みきれないな、と、いった顔で見ていたアキラが遼に目配せして、意を得たとばかりに片目をつむって見せた。


 八街から遼が聞いた話は、この場の全員にも成田智子に対する不信感を抱かせたようだった。
「在るべき場所に在るべき物がないと、気が済まない性格だからなぁ、あの先生は」
 アキラの言葉に遼は頷き、優樹は身を乗り出した。
「それじゃあ、成田先生が犯人なのか?」
「だからそう、結論を急ぎなさんな。篠宮みたいなのが刑事になったら誤認逮捕で始末書の山だな」
 逸る様子をからかわれ、ふて腐れた優樹は椅子に座り直す。いつもの様子に少し安心して、遼はアキラに視線を戻した。
「でも、何か知っていそうな気はしますね」
「さすがに秋本は、冷静だねぇ」
 追い打ちをかけるような言葉に優樹は顔をしかめた。
「ナリちゃんの事なら、最近女の子の間で噂になってるわよ」
 遼の笑顔に安心したのだろう、杏子が怖ず怖ずと口を挟んだ。
「ナリちゃん? それ、成田先生のことか?」
 驚いたようにアキラが聞き返すと、途端、杏子は得意そうな顔になる。アキラだけでなく、遼も女子学生が成田をそう呼んでいるとは知らなかった。
「ナリちゃん最近綺麗になったって、女子の間では噂の的なんだから。ほら、以前はいつも同じ色合いのニットのトップに……黒とか、紺とか? あわせてセンスの悪いロングスカートはいてたでしょ。おまけにあの、引きずるような白衣。背が低いんだから似合わない、最悪ってみんな言ってたんだけど……」
 杏子は、四人が自分の話に興味を示しているのが嬉しいらしく、少し勿体ぶるように間をあけた。
「ところがね、夏休みが明けてからタイトな服に変わったの。コーディネイトするブランドも三つくらいに絞ってあるようだし、確かあれは……」
「ブランド名は置いといて、それがどういう事か教えてくれると助かるんだけど」
 アキラが困ったように杏子に頼む。
「あら、そんな事すぐにわかるじゃない。彼氏が出来たのよ、間違いなくね」
「ええっ!」
 男子四人は同時に声を上げた。
「成田先生、既婚者だぞ」
 まるで夫以外の男性が存在しているといった口振りに、今まで黙っていた岡田が言ってはいけない事のように低い声で呟いた。
「不倫よ、決まってるじゃない」
 自信満々で、杏子はくるりと男子を見回す。
「ナリちゃんの旦那様って市役所勤めで、お見合い結婚なんだって。もう五年目になるらしいんだけど、ほら、お子さんもいないし、そろそろ倦怠期になりやすい時期なのよね。ナリちゃんは子供が欲しいらしいんだけど、ご主人が乗り気じゃなくて……あっ!」
 自分以外の四人が、全員男子だということに改めて気付き、杏子は顔を赤らめた。調子に乗って、女子の間でしかできないような話までするところだったらしい。女の子同士がどれほど際どい話をしているか遼にはわからないが、羞恥心から口籠もる様子から、おもんばかる事は出来る。
 遼と岡田は体裁悪そうに苦笑したが、優樹だけ場の空気を読めていない。アキラが笑いを噛み殺しながら杏子に尋ねた。
「ナリちゃんの御主人の話は、またの機会にお願いするよ。それで杏子ちゃん、不倫の話だけど本当の事なのかい?」
「もちろん本当よ! ……と思うんだけど。だって千葉でナリちゃんが旦那様以外の人と買い物してるとこ、友達のママが見たっていってたもの」
「うーん、それだけじゃあ確証に欠けるなぁ。」
「でも、絶対にそうよ! 女の子のカンは役に立つって、アキラ先輩言ったじゃない」
 涙目でムキになる杏子に、アキラはたじろぐ。
「あー、はいはい、わかりました。頼むからそんな顔しないでくれるかなぁ……。じゃあ『ナリちゃん』の近辺と、その男性の事を調べてみるとするか。もしかして警察の知らない手掛かりを、先に見つけられるかもしれないし」
「でもどうやって?」
 遼がアキラに聞き返す。
「杏子ちゃん、『ナリちゃん』が着ている服のブランドがわかるなら、千葉に買い物に行ったときにでも店を当たってみてくれないかな。確率は少ないが、上手くしたら見かける事が出来るかも知れない。俺達は学校で彼女のことをもう少し詳しく調べてみるよ。篠宮は……早いとこ怪我を治すことだな。凶悪犯がわかったら、おまえの腕が頼りになるんだからさ」
 アキラの言葉を本気か冗談か判断しかねて優樹は不満そうな顔になったが、調べ物には向かないと納得したらしく無言で頷いた。その姿を見て、心のどこかでやはり優樹を必要としている自分に戸惑いながらも遼は安堵していた。