〔三章〕
     ―1―

 『秋の日はつるべ落とし』とは、よく言ったものだ。体育館のギャラリーから茜色に染まりつつある空を見上げ、藤堂光樹はそう思った。彼方に目を移せば、今しがたまであれほど碧かった海上の空には瞬く間に叢雲がわき、水平線上の太陽を見る間に覆い隠していく。そして雲間からもれる残照は、夏の日ほど地上に明るさを留めていてはくれないのだ。
 身支度を終えて帰宅する演劇部員達が、ぱらぱらと体育館から出て行くのが見える。そう言えばと思いついて藤堂は、その中に部長の倉持美沙都の姿を捜した。
「おーい倉持、参号倉庫に使えそうな油絵があるって言ったの、おまえだったよな!」
 まさに体育館から出ようとした後ろ姿を、大声で呼び止める。
「えっ、なに? 何の事?」
 美沙都は面倒くさそうにギャラリーを見上げた。
「相変わらず無責任なヤツだな。おまえの出番、ドレスデンのシーンで使いたいって言ってた油絵の事だよ! これから取りに行くから、一緒に来てどれだか教えろよ」
「ええっ! 今から倉庫に行くの? イヤよ、あの倉庫気持ち悪いんだもん」
 不満そうに口をとがらした美沙都に、藤堂は苦笑した。
「おまえ部長だろ? 真面目に協力しろよ。まさか幽霊が出るとでも思ってるのか? ガキじゃないんだからさ。」
「別にそう言う訳じゃないけど……わかったわよ、行けばいいんでしょ? ……せめてもっと明るいうちに言ってよね」
 藤堂の譲らない態度に美沙都は、渋々ながらも倉庫への同行を承知する。
「だったら早く降りてきなさいよ、藤堂! 暇さえあればギャラリーで外ばっかり観てるんだから、不真面目なのは君の方でしょう?」
「俺の場合は、ここで創作意欲を掻き立ててるんだよ! おまえのサボりと一緒にするな!」
 階段へと向かった藤堂に、美沙都のしかめっ面は届かなかった。

 事あるごとに美沙都に対して冷たい口の利き方をする藤堂だが、内心ではその舞台センスを高く買っていた。それゆえ美沙都が使いたいと言った油絵を、是非見ておく必要があったのだ。
 そもそも演劇部部長でありながら、美沙都はこの舞台にあまり気乗りしていなかった。『ギリシャ神話』や『イリーアス』のような題目を演じる方が趣味に合うと言い、藤堂の書く脚本を難解だと主張しては不満を漏らす。ただ今回の演目に関してはドイツ軍将校の衣装につられ賛成してしまったようで、その偏った趣味も藤堂には理解しかねた。
 演劇部入部当初、美沙都の自信過剰ともいえる態度が鼻について仕方がなかった。しかし、女性としては高すぎる身長にコンプレックスを持ち、それを克服するために演劇に打ち込んでいるのだと解ってからは、かえって彼女が舞台女優として成功することを願うようにさえなっていた。
「あぁーあ、せめて藤堂の背がもう二十五センチ高いと様になるのになぁ……」
 然れども、この口の悪さがなければもう少し素直に応援してあげられるのだが、と、諦めの溜息をつく。
 どうやら藤堂の言葉は必ずしも外れてはいなかったらしく、地下倉庫へと続く暗い階段を小柄な藤堂の影に隠れるようにして下りる美沙都は、まるで幽霊を怖がる子供のようだった。少しは可愛いところもあるかと思いきや、
「舞台以外の暗いところと狭いところは苦手なのよね、君の体格じゃ気にならないと思うけど」
 再度、身長を持ち出されて「むっ」とする。
「頭気を付けろよ、本番前にオデコに傷つけたらデカイ身体を恨む事になるからさ」
「嫌みなヤツ!」
 それはこちらの台詞だ、と、思いながらも無視して藤堂が扉の鍵を開き倉庫に通じる廊下に入ると、途端、ひやりとした空気が身体を包みこんだ。美沙都は、まだぶつぶつと文句を言い続けていたが構わず、通路の明かりを付けて参号倉庫に向かう。
「? 誰かいるのかな」
 部屋の電気をつけようとして藤堂は、奥にある棚の陰に人影らしきものを見つけた。
「うっ、嘘でしょ。脅かそうったってそうはいかないんだから」
 慌てて美沙都が電気のスイッチを入れる。すると確かに、棚の横に誰かがうずくまるように座っているのがわかった。見覚えのあるあの服は……。
「なぁんだ、あれ成田先生じゃないの? こんなとこで具合が悪くなったのかしら……成田先生!」
 声を掛け、近づこうとした美沙都の腕を掴んで止める。
「待てよ。入り口、鍵が掛かってたし電気も消えていた」
「えっ、そうだけど……」
 来るなと言うように、藤堂は美沙都の肩を入り口の方に軽く押した。厭な予感がしたからだ。
「成田……先生?」
 声を掛けながら、屈んでその顔を覗き込む。
「先生?」
 肩に手を掛けると突然、身体がガクリとくずおれた。
「い、いやぁっ!」
 向けられた死者の形相に、美沙都の叫びが木霊した。


 高校生を相手に事情聴取するのは、正直なところやりにくい。神崎は正門から少し坂を下りたところにある職員用駐車場に車を止め、眠い目をこすりながらドアを開けた。昨夜は現場検証の後そのまま県警本部に戻り、今日は朝早く開かれた捜査会議に出たため、ろくに寝る暇もなかったのだ。叢雲学園に着くまで隣でいびきをかいていた濱田は、神崎を待たずにさっさと正門に向かっている。
(濱田さん、自分が苦手なものだから……)
「若い者の相手は、やはり若いヤツでないとな」そう言って濱田は、学生の相手を全て神崎に任せたのだった。子供でも大人でもない多感な年頃の彼等に不安や動揺を与えないよう気を配り、必要なことを聞き出すのは思いの外難しい。ましてやそれが女子学生となると……。
(印象的な子だったな)
 事情聴取に答えた女子学生は、おそらく気丈な性格なのだろう。質問に答える言葉ははっきりしていて、良く知る女教師の変わり果てた姿を目の当たりにした当人とは思えないほどだった。だがさすがに迎えに来た両親の前では、堪えきれずに泣きじゃくっていた。
 倉持美沙都の美しい黒髪が、神崎の知る少女と重なる。
(江里香さん……)
 神崎が叢雲学園に入学したとき、この学園には三人のミス叢雲と呼ばれる女子学生がいた。知的でクールな三年の山本葉月、マスコット的な愛らしさを持つ一年の乾陽子、そして誰にでも優しく姉のような存在だった二年の榊原江里香。当時一年生だった神崎は、密かに榊原江里香に憧れていた。
 美術室の窓際で、彼女はよく海の絵を描いていた。入り口でたびたびそれを覗いていた神崎の姿に気付いて、いつしか江里香は微笑みかけてくれるようになった。しかし彼女はもう戻らない。
 刑事という職業について犯罪者を追う事に馴れ、最近怒りを忘れてはいなかったか。何のために、今自分はここにいるのだろう。
(犯人は必ず俺が捕まえる)
 神崎は改めて自分に誓った。


 成田智子の死は、その日のうちにアキラから優樹に知らされた。
「絞殺だそうだ、首の骨が折れていたらしい」
 アキラは演劇部員の寮生から詳しい話を聞いたようだが、携帯電話を持たない優樹は田村家の家庭用電話を使っていたため詳しいことは明日学校でと、それほど長話にはならなかった。しかし杏子の方は一晩中、携帯メールや友人とのやり取りで、どうやら寝る間もなかったようだ。翌朝、杏子の目は真っ赤に腫れていた。それは『ナリちゃん』の為に泣き明かしたせいもあった。
 優樹がバイクで学園に向かう途中、白いセダンが彼を追い越していった。運転席でハンドルを握っているのは神崎だ。オフロード用のフルフェイスヘルメットをしている優樹に気が付かなかったようだが、おそらく今日学園で顔を合わせることはないだろう。今回の件は直接関係がないからだ。制限速度を超えないように少しスピードを落とし、優樹は警察の車の後ろをおとなしくついていった。

 だが予想を裏切って、学園に着くと正門前で神崎が優樹を待ちかまえていた。寮から直接来たらしく、アキラと遼が一緒の姿に厭な予感がする。
「やあ優樹君、あのバイクは君だったのか。出来ればもう少しゆっくり走ったほうがいいと思うよ、僕の車を見てからじゃなくてね」
 神崎は笑っているが、次はないよ、と、釘を差しているのだと解り優樹はメットの奥で苦い顔になった。
「あの、俺達に何か用があるんですか? 成田先生のことなら知っているけど、今回は関係ないですよ」
 バイクのスタンドを立て、ヘルメットを脱ぐ。
「まあ、直接はね。ああ、佐野君も来たようだからバイクを置いたら図書室の方に来てくれるかな。僕は彼等と先に行ってるよ」
 神崎は校舎の方から走ってくる佐野を手招きしてそのまま図書室のある西棟に向かった。
「なんだってんだ?」
 首を傾げバイクのスタンドを払って顔を上げると、足を止めて振り向いた遼と目があった。以前ならば気軽に軽口を叩くのに、出来ない。
「……なんだってんだよっ!」
 誰に言うことなく呟いて、優樹は目線を逸らすとバイクを押して駐輪場に向かった。

 警察が校舎内を歩き回ることに難色を示した学園側は、図書室で用のある学生に話を聞くように申し入れてきた。神崎としてもその方が仕事がやりやすく、職員室での情報集めが終われば濱田も図書室にやってくる手筈になっていた。
「ところで君達は、いつあの倉庫に調査に入ったのかな?」
 一見にこやかに、神崎は学生達を見渡した。
「どういう事ですか、別に調査なんて……!」
 言葉を真に受けた優樹が、ムキになって言い返す。
「新しい指紋の中に、俺たちの物があったからでしょう? 神崎さん」
 そう言って平静な目で見つめ返した少年に、神崎は他の学生とは違う何かを感じた。穏やかそうな外見とは裏腹に、その瞳の奥には刑事である自分にしか解らない、鋭利な刃物のような光がある
「その通りだよ、須刈くん」
 神崎はそれをやんわりと笑顔でかわした。
「石膏像事件の時、鑑識は倉庫の指紋を残らず採取しているんだ。部外者を判別するため君達の指紋も、そのとき採取させてもらっているはずだね。実はその後、参号倉庫に出入りした者は誰もいなくて、付いていた指紋は君達と今回の発見者、藤堂君に倉持君、そして成田智子先生の物だけなんだ」
「俺たちは文化祭用のパネルを取りに行っただけですよ。二日前、午後の五時半過ぎくらいかな、倉庫に入る前に藤堂に会っていますから聞いてみてくださいよ。篠宮と秋本には手伝いを頼んだだけで、出てきたのは六時半くらいだったと思います。そしたら外は、ひどい雨で……」
 とぼけた口調のアキラに、神崎は鋭い視線を向けた。
「では、パネルを運ぶのが大変だっただろう?」
「そりゃあ、もう」
「しかし何もわざわざ、雨の日に取りに行かなくても良さそうなものだが」
「美術部のデザイン科とパネルが共用だから、早めに確保したかったんですよ」
「それで一時間も倉庫に?」
「なっ、なかなか丁度良いサイズが見つからなくって、なぁ、須刈」
 佐野が口を挟むと、余計な事を言うなとばかりにアキラは目配せした。
「二日前、五時半頃に倉庫に入り六時半頃に出たんだね?」
「はい」
「鍵はその時、間違いなく掛けたかな?」
「鍵は佐野が掛けましたが、職員室に返しに行ったのは俺です。雨でひどく濡れたので、一旦寮に帰って着替えてから八時ぐらいに当直の先生に返しました」
 まるで渡り合おうとするかのように、アキラは一人で質問に答えている。他の三人は、その奇妙な緊張感に落ち着かない様子だった。
 神崎は手帳に必要な情報を書き留めると彼等を順に見て、最後にアキラに目を止めた。
「子供の好奇心で余計な興味を抱かない方がいい。相手によっては、怪我では済まなくなるからね。事件との関わりは不明だが、現に一人死んでいるんだ、解ったかい?」
「もちろん解っていますよ、刑事さん」
 その視線を受け止めてアキラが答える。牽制に臆したそぶりは欠片もなく、神崎は小さく苦笑した。

 彼等の他にも、事情聴取を受けるらしい数人の学生が図書室の外で待っていたが、大体は演劇部の生徒だった。これでは練習に差し支えるだろうな、と、アキラは藤堂を気の毒に思う。ましてや第一発見者の倉持は、部長といえども女子学生だ。文化祭までに立ち直ることが出来るのだろうか。
「あの……アキラ先輩はもしかして、神崎さんが嫌いなんですか?」
 南棟につながる渡り廊下に出たところで遼がアキラに尋ねた。
「うーん、どちらかと言えば好きなタイプかな。なかなかの美形だし、服のセンスも良かった。強いて言えば、もう少し背筋があった方が刑事らしいスーツの着こなしが出来ると思うけど……」
 心配そうな遼に首を傾げて答えると、隣で優樹が顔をしかめた。
「やめてくれよ、アキラ先輩。あの気色悪い来栖みたいな事言うのは」
「あはは、あいつと一緒にされたらかなわないな。冗談はさておいて信頼できそうな人だと思ったよ」
 どうやら遼は、神崎に好意を持っているようだ。ほっとしたような顔になったのを見て微笑んだアキラもまた、その刑事らしからぬ身近な人柄に好感を抱いていた。
「警察が持っている情報がわかれば、犯人を突き止める手がかりが増えるんだけどなぁ……何とか神崎刑事が協力してくれないかな」
「そりゃ無理だ。たった今牽制されてただろう、おまえ」
 佐野が諦めろと言うように手を振る。
「うーん……そうだ佐野、おまえ叔父さんに頼んで神崎刑事のこと調べてみてくれよ。弱点とか、嗜好とか……」
「まさか刑事を強請って協力させようなんて思ってるんじゃないだろうな? 止めろよ、反対に捕まるのがおちだ」
「……だろうねぇ」
 当然本気の言葉ではなかったが、何かしら手掛かりが欲しかった。どうしたものかと思考を巡らせていると、
「あの、神崎さんに協力を頼むのに役立つかどうか、わからないんですけど……。もしかして神崎さんは、生きていた頃の姉さんを知っているかもしれないんです」
 躊躇いがちに遼が申し出た。
「えっ、それは本当か? 神崎さんが、おまえにそう言ったのか?」
「いえ、違います。でも……」
 石膏像を見つけた日、神崎を取り巻く水と江里香のヴィジョンを見た事を遼が話すと、佐野がおどけた口調で口を挟んだ。
「もしかしたら、二人は恋人同士だったかもしれないぜ。これはなかなかロマンティックな展開だねぇ、恋人の敵を討つ刑事なんてさ」
 アキラは同意の仕草で頷きながらも、よもや学生に弱みを見せるような真似はしないであろう神崎から、事実を確かめる手段があるかと考えた。身近で人の良さそうな外見とは裏腹に、刑事としての気概が強く伝わってきた。仕事に実直で、頭が硬そうだ。
「そうだとしたら、つけいる隙が見つかるんだけどなぁ。簡単に話してはくれないだろうけどね」
 思案顔のアキラに、遼が決意の顔を向けた。
「僕の、ヴィジョンの話をしてみようかと思うんです」
 えっ、と、アキラは驚いて遼を見る。
「もし佐野先輩が言った通りなら、神崎さんは信じてくれるかもしれない。そして力を貸してくれるかもしれない」
「信じるわけ、ねぇだろ」
 突然、優樹が低く呟き、遼は意想外の顔を向けた。
「優樹……?」
「とにかく、俺は反対だからな」
 それだけ言うと優樹は踵を返し、一人その場を離れた。


 昼休みを知らせるチャイムが鳴り、神崎はやっと息苦しい時間から解放された。と、言っても、午後もまだ何人かの学生を相手にしなくてはならない。警察の応対を任された高津秀代教務主任が、学食と売店を使ってくださいと言いに来てくれた。
 かつて自分も利用していた学食には懐かしさを感じたが、今の立場で学生達と机を並べるわけには行かない。外に食事に行くにしても一番近い店までここからだとかなりの距離があった。
(売店に行くか、それとも昼飯抜きかな……)
 売店で学生の間に並ぶのもまた、気恥ずかしい。
「おう神崎、売店で弁当買ってきたぞ。近くの弁当屋が入ってるんだってな。ガキどもにお勧めを聞いたらコロッケ弁当がうまいんだってよ。それにしても安いなぁ。ひとつ二百五十円だ」
 濱田が弁当の包みを二つ持ち、図書室に入ってきた。彼はどうやら遠慮や気後れとは無縁らしい。
「あっ、有り難うございます濱田さん。それじゃあ車の中で……」
「うん? ああ、そうか。ここでというわけにはいかんな。食堂でいいんじゃないか? お茶があるそうだぞ」
 濱田はすっかり学生と一緒に食べるつもりでいる。
「いえ、自分は……」
 遠慮します、と、言おうとしたとき、図書室の入り口から秋本遼が顔を出した。
「あの……神崎さん。お話ししたいことがあるんです。ちょっと写真部まで来てもらえませんか?」
「写真部に? ……構わないけど」
 濱田が神崎に目配せする。
「学生は、おまえに任せた。この弁当じゃ足らなそうだから俺は学食に行ってうどんでも追加するかな」
 濱田は包みをひとつもって図書室から出ていった。
「僕らもこれから部室でお昼ご飯食べるんです。お茶くらい出せますから神崎さんも一緒に食べませんか?」
「ありがとう、じゃあそうさせてもらうよ」
 神崎は遼と連れだって、三階にのぼっていった。

 アキラにお茶を入れてもらい、神崎は遼と向かい合って弁当の包みを開いた。濱田が学生から聞いた通り、〈コロッケ弁当〉は味も量も値段の割に満足のいく物で、二段になった入れ物の一つに白飯が、もう一段に山盛りの千切りキャベツとコロッケが三つ入っている。それは学生達においしく食べてもらおうという店の思いやりなのか、揚げたてでまだ熱く、さくさくとした軽い歯触りが嬉しかった。
「これは旨いな。僕が学生のときは学食しかなくてね、それもカレーか肉うどんの二者択一さ。弁当持ってきてる奴らが羨ましかったな。館山からバスで通ってたから朝早くて、お袋は弁当作ってくれなかったんだ」
 学生のように白飯をほおばる神崎に笑う遼は、その弁当屋のレタスとハムがたくさん入ったサンドイッチを牛乳と一緒に食べている。
「海岸沿いの道から表通りに出る道に入ってすぐの左側に、コンビニがあるでしょう? あの裏でおじさんとおばさん二人でやってるんです。以前は千葉でお弁当屋さんをしてたそうですが、五年くらい前に戻ってきて、今はこの学園とコンビニのお弁当だけ作ってるみたいですよ。でも運動部の合宿とか大会なんてときは、いつもおいしいお弁当を用意してくれるんです」
「へえっ、いいなぁ。僕は陸上部だったけど、大会の時の弁当が不味くてね、実力が発揮できなかったよ。そう言えば今日、優樹君は一緒じゃないんだね」
 遼の顔色がさっと変わったのを、神崎は見逃さなかった。部室にはアキラと遼の他にも数人の学生がいたが、その中に優樹の姿がない。てっきり一緒にいると思い込んでいたのだが。
「そんな、四六時中つるんじゃいませんよ。気が向いたら来るんじゃないかな?」
 遼にかわってアキラが答えた。
「……それもそうか」
 当初感じた優しそうで心許ない見かけとは違う、秋本遼の芯の強さが度重なる事情聴取で徐々に解ってきた。比べて何事にも表に立ち、自分だけで解決しようとする篠宮優樹。第三者から見ても明らかに性格の異なる二人の間で、事件の捉え方による壁が出来たのかもしれないと神崎は思った。友達から先に進むために、多くの壁を乗り越えなくてはならないことを神崎は知っている。だがその度に信頼と絆は深まっていくものなのだ。ふと、妙に肩入れしている自らが可笑しくなって、神崎は頭を切り換えた。
「それで、話って何かな」
 アキラがコーヒーを神崎と遼の前に置くと、別の机で他の学生と話をしていた佐野が席を立ち、連れだって部室から出ていった。遼はしばらく神崎を見つめていたが、やがてコーヒーを一口飲み、決意したように口を開いた。
「神崎さんは……僕の姉、榊原江里香とどういう関係だったんですか?」
 単刀直入に聞かれ、神崎は狼狽えた。
「どういう関係……と言われても。被害者と、刑事、かな?」
「誤魔化さないでください。姉は、違うと言っている」
「えっ?」
 神崎には、遼が何を言っているのか皆目見当が付かなかった。死んでしまった人間が、話をするわけがない。それに今回の事件がなければ姉がいた事自体、遼の知る事とはならなかったはずだ。
「言ってることが、解らないんだけど」
「石膏像が見つかった日、僕は貴方の足下が水に包まれるのが見えた。その時、神崎さんにも見えたはずなんです。姉さんの姿が」
 途端、神崎の顔から血の気が引いた。
(まさか、あれはただの幻ではなかったのか?)
「幻なんかじゃない。榊原江里香はそこにいて、貴方に何かを伝えようとしていたんです」
「馬鹿な!」
 思わず声を荒げそうになったが、神崎はそれを抑えた。確かに幻ならば、遼が同じ物を見たと言えるわけがない。だが、そんなことがあり得るのだろうか。
 神崎の両親は神事を重んじる方で、時にうるさく感じるほど方位や吉凶日にこだわるところがあった。それほど信心深くはなくても当たり前のようにそれを受け止めていたが、だからといって身近に霊の存在や超常現象が起こりうるなどとは思ったこともない。突拍子のない話に言葉を失い戸惑いながらも、神崎は冷静になろうと勤めた。榊原江里香の姿が見えるなどと言って、カマをかけているのか? しかし何故? 訝しむように顔を曇らしたが、遼の真摯な表情は変わらなかった。
「にわかに信じてもらえるとは思っていません。でも秋本に、ちょっとした能力があるのは本当で、そのせいで子供の頃から結構つらい思いをしていたらしいんです。現に参号倉庫では山本葉月が殺されるところが見えたようだし、石膏像に何かあるとわかったのも、美術室で榊原江里香のヴィジョンを見たからなんです」
 そう言いながら出方を伺っているアキラをちらりと見て、神崎は冷めかけたコーヒーを飲み干しカップを置いた。信じられるはずはなかったが、どうやら嘘でないらしい。
「その話が本当だとしたら、彼女は僕に何を伝えようとしていたというのかな? いったい君達は、僕から何を聞き出そうと言うんだい?」
 油断なく探りを入れると、遼が必死の表情で訴えた。
「もしかして姉さんは、神崎さんの恋人だったんじゃないですか? だから神崎さんは……」
 胸に微かな痛みを覚えながら、神崎は感情を押し殺す。
「悪いが……見当違いだ。確かに彼女の事は学生の時知っていたよ、何しろミス叢雲だったからね。それよりそんな話を持ち出して、僕から警察の掴んだ情報を聞き出すつもりでいたのかな? 忠告しただろう? 余計な首を挟むなと……」
「姉さんを殺した犯人を知りたいと思うことが、余計なことなんですか! 姉さんは、きっと僕に犯人を捕まえて欲しいのだと思う。だから今までしばらく出てこなかったあの能力が、また現れたんだ。神崎さんは、本当に姉さんと知り合いじゃなかったんですか? それなら何故姉さんは貴方をあんな目で見てるんですか?」
 遼が勢いよく指さした窓に、神崎は驚いて目を向けた。しかし、何も、見えない。
「……いい加減にしたまえ、大人を、からかうのは! 犯人逮捕は我々警察に任せて、君達は学生のやるべき事をやるんだ」
 僅かばかりの期待を抱いた自分に胸の内で苦笑しながら、神崎は弁当のからを手に持ち席を立った。
「コーヒーご馳走様、とても美味しかったよ。事件が解決したときにでもまた、飲ませてくれるかな?」
「そう言わず、いつでもどうぞ」
 成り行きは予想できたと言わんばかりに、アキラが微笑む。遼はうつむいたまま、神崎を見送ろうとはしなかった。
 部屋を出ようとして神崎は、今、遼が指さした窓をもう一度振り返ってみた。だがやはり、何も見る事は出来なかった。