―2―

 優樹はもう、一週間以上写真部の部室に顔を出すこともなく、剣道部の部活動に専念していた。
 悪天候での運転には自信があったはずなのに、遼が自分の意志で犯人を突き止めたいといったあの日、何故かライディングに集中することが出来なかった。千々に乱れる思考に判断力を奪われ、横殴りの雨と、すくい上げるような突風にバランスを崩して気付いたときには道路下の海岸に投げ出されていたのだ。
 並はずれた運動神経と、雨で身体が滑ったことが幸いして大事には至らなかったが、なかなか痛みの引かない右肘の打ち身を改めて医者に診てもらったところ上腕骨にひびが入っている事が解り、しばらく激しい練習は止められてしまった。包帯を樹脂で固めただけの簡単なギブスではあったが、今は仕方なく左手だけの打突練習や素振りをするしかない。
 優樹が得意とする諸手左上段は、相手の攻めに対して決して動じない気位だ。別名「天の構え」または「火の構え」とも称されるそれは、対峙する者を飲み込み焼き尽くす気迫で頭上より見下ろす、強く攻撃的な構えである。両手で竹刀を持ち、ゆっくりと振りかぶる。一歩踏み込んで振り下ろした途端、激しい痛みに竹刀を取り落としてしまった。
「ちくしょう!」
 自分の中でくすぶる未消化な感情を、力任せに振り払うことさえ出来ない苛立ちに歯噛みする。
「無理をするな、篠宮。焦ると怪我が治らんぞ!」
 剣道部顧問の熊谷が、優樹に向かって大声で怒鳴った。練習を休んで身体を治せと再三言われているが、言う事を聞かない優樹に恐らく怒っているのだろう。
「少し、外を走ってきます」
 優樹は竹刀を拾うと、運動着に着替えるため更衣室に向かった。

 一時間ほどのロードワークから帰り武道館に戻ろうとした優樹は、西棟からクラスメイトの岡田悟が出てくるのを見つけた。岡田も優樹に気が付いて、挨拶の手を挙げ走り寄ってきた。
「最近、写真部の方に顔出さないんだな」
「えっ? えっと……ここんトコ、剣道部の方をサボりがちだったからさ。少し真面目にやんないと、熊谷がうるさいんだ」
 熊谷が指導熱心で厳しい事を、優樹は時々、岡田に愚痴っていた。しかし怪我が治りきらない部員を、無理に練習させるはずがない事ぐらい岡田にもすぐ解る。言い訳としては説得力に欠けるかな、と、伺い見たが、岡田は無表情に「そうか」とだけ答えた。
「悟、今日はもう終わりか? 今、着替えてくるからさ、一緒に帰ろうぜ。怪我治るまでバイク禁止なんだ」
「ああ、いいよ。ここで待ってる」
 岡田は武道館入り口のコンクリート階段に腰を下ろすと鞄を置いた。


 もとより岡田は、優樹が剣道部を切り上げる時間を見計らって西棟から出てきたのだった。タイミングよく出会えなければ、それはそれで構わない。運良く姿を見つけても、優樹から声が掛からなければ、そのまま帰るつもりだった。
「よっ、待たせたなっ! 帰ろうぜ」
「……おう」
 ぼんやり見ていた陸上部の練習から目を逸らし、制服に着替えて出てきた優樹を見上げて立ち上がる。まだ日は高く帰宅する生徒の姿はまばらだが、裏門を出たところから断崖を上る階段までの緑道では、海を眺めて談笑する女生徒の集団が幾つかあった。その中の何人かが、優樹を見つけて囁きあっている。
「タイピンの色がオレンジだから一年生だな。こっち見てるぞ、手くらい振ってやれよ?」
 肩を突いてからかうと、優樹は不機嫌そうな顔になった。
「ばぁーか、そんな恥ずかしい真似出来ねぇよ。おまえが振ってやればいいだろ」
「生憎あの子達の視線は、おまえしか見てないよ。自覚無いのか?」
「なんだよ、それ」
 声を殺して岡田は笑った。
 剣道有段者で、名のある大会では必ず上位に入る優樹は女子生徒の人気が高い。しかし本人に取ってはどこ吹く風らしく、その心は何か他のものに囚われている気がしていた。まるで、捜し物が見つからない子供のようで、放っておけないのだ。
 岩肌に添った階段を上りながら海を見下ろした岡田は、ふっと、中学時代を思い出して足を止めた。
「そういえばおまえさぁ、中学の時よく部活をサボって海に泳ぎに行ってたよな」
「まあね、あれは身体を鍛えるためだったんだ。いろんな運動を経験して筋肉を均等に鍛えないと、いい動きは出来ないんだぜ」
「よく言うよ、俺にはそうは見えなかったけどなぁ。ただ単に、海で泳ぐのが好きなだけだろう? 真冬でもお構いなしで、付き合ってる俺の方が凍えそうになった」
「ちぇっ、無理に付き合ってくれなくても良かったんだ」
「勝手な事言いやがって、ほっとけるかよ。あの時も、流木燃やして暖まろうって言い出したのは……」
「あっ、勘弁! その話はもう止めてくれっ!」
 狼狽える優樹に構わず岡田は続ける。
「優樹だったんだぜ。それが海岸に引き上げてあったボートまで火が飛んで、すっかり燃やしちまったんだよな」
 つい昨日の事のように、その光景が目に浮かぶ。優樹も同様に記憶が甦ったのだろう、決まり悪そうな顔になった。
「あんときはホント、焦ったな。海岸に落ちてたペットボトルの空き容器で、海の水を汲んでかけたけど間に合わなくてさ。その上、置いてあった服まで燃やして……。悟の家が海岸から近かったから助かったよ、海パンのままじゃ家に帰れなかったもんな。あとから、おまえの親父と田村の叔父さんに酷く叱られて、ボートの持ち主の家まで一緒に誤りに行ったっけ」
 二人は顔を見合わせ、笑った。

 断崖を伝う石段を上りきり、見晴らしのよい岬の先端に出たところで岡田は優樹を促し村雲神社の境内に誘った。
 海に向かって湾を見下ろすかのように立つこの神社は、室町時代頃からの古い謂われのあるものだ。その昔、湾で暴れ、漁に出る者を苦しめた海竜を封じるために身を犠牲にした巫女を祭るものだと聞いたことはあるが、学生である彼等にとっては古い伝説など興味のないものだった。だが岡田は、優樹がここから海を眺めるのが好きだと知っている。どうやら優樹にとって、気持ちの落ち着くところらしかった。
「さっきの、ボートを燃やした話なんだけどさ。あのとき優樹は自分だけが悪いんだって、言い張ったんだよな」
「えっ? そうだっけ? ……でも結局二人の責任だって事になって、叔父さんのペンションでバイトして弁償することになったんだよなぁ。大半はおまえの親や叔父さんに負担してもらったんだけど」
 二人は、しばらく黙って海を見ていた。珍しく水平線上に雲はなく、太陽から海上にのびる光の柱がきらきらと美しく輝いている。
「おまえすぐ、誰かを庇おうとするよな。だけど、あのとき俺は二人で責任をとるべきだと思ったし、二人で金を返したかった。俺は、おまえの親友だと思ってたからな」
「……ああ」
 あの時、岡田はもう少しボートから離れたところで火を焚くように忠告したのだが、風を避けるのに丁度良いと言った優樹に強く反対はしなかった。結果、優樹は岡田の忠告を聞かなかった自分に責任があると言い張り、田村は二人を見比べて「両方に責任がある、友達なんだろう」と答えたのだ。
「田村さんが二人の責任だと言ってくれた時、正直俺は嬉しかった。おまえは迷惑だったのか?」
「ばっ、馬鹿言うなよ。……嬉しかった、けどさ」
 優樹の顔が赤く見えるのは、太陽のせいばかりではなさそうだ。
「一人で全部背負い込もうとするの、悪い癖だぜ。例の事件にしてもそうさ。秋本は、まわりの人間が思ってるほど弱いヤツじゃない。ホントは解ってたんだろう? あいつの強さが。おまえ、それが欲しかったんじゃないのか?」
 優樹は何も答えない。
「アプローチ、下手だよな」
「何でそんなこと、悟に解るんだよ」
「言っただろ、親友だって」
 岡田が笑った。
「秋本は、俺とは違うんだ。あいつはおまえに足らないところを補ってくれるパートナーってとこかな。多分……」
 岡田はそれ以上言うのを止めた。優樹が精神的に寄りかかれる存在は自分ではない、と。
「よく、わかんねぇよ」
「そのうち解るよ、多分な。ところでアキラ先輩が刑事を味方につけたいと言ってた話、あれ、失敗したらしいぜ。秋本の能力のこと、うち明けたらしいけど信用されなかったんだってさ」
「えっ、あの石頭刑事! 何で信じてやらねぇんだよ!」
 怒って立ち上がった優樹を、岡田は呆れて見つめた。
「言ってること、矛盾してるぞ。佐野先輩から聞いたんだけど、信じてもらえるわけないって、おまえ秋本に言ったそうじゃないか」
「ううっ、それとこれとは話が違う」
 何が違うのか、岡田は聞くのも馬鹿らしかった。
「帰ろうぜ。バス、無くなっちまうからな」
 遊歩道に出ると、この時間のバスに乗り遅れまいと急ぐ生徒が何人か走っていた。二人はあわてて、バス停に向かって走り出した。


 何人かの女子学生から聞いた情報を元に成田智子の身辺を調査していた神崎は、彼女が付き合っていたらしいと言う男の姿を、未だ掴むことが出来ずにいた。よほど用心深い付き合いだったのか、それらしき証拠は何も見つからず、館山や千葉で目撃したという証言さえ怪しく思える。
 今回の事件が十二年前の事件と関係があると言い切る濱田に対して、県警捜査一課は別の事件として扱う事にしたらしい。神崎は元々、十二年前の事件に関しては濱田と違い専任ではなかったため、成田智子事件の捜査チームに入りながら濱田と石膏像事件の方も担当していた。館山での聞き込みは、若い女性刑事、早川と組んでいる。
「まがりなりにも教師だからな、そう簡単にはわからんさ」
 くたびれた様子の神崎の肩を、濱田が叩いた。
(秋本遼に協力してもらえば、犯人がすぐ解るのかな……)
 ついそう考えそうになって、慌てて首を振る。
「それは駄目だ! 俺の仕事なんだから」
 思わず口を突いて出た言葉に、濱田がお茶を啜る手を止めた。
「何、ぶつぶつ言ってるんだ? 考えがあるなら話した方がいいぞ、他人の助言を聞いてまとまることもあるからな」
「あっ、いえ何でもないんです」
 濱田には、遼が見たという榊原江里香の話はしておらず、ただ学生が警察の情報を知りたがっていると報告しただけだった。くまなく報告するように言われているが、茶番に付き合わせる必要もないだろうと判断しての事だ。どちらにしても、遼の話を濱田が信じるとは思えないし、榊原江里香について色々と聞かれるのも嫌だった。
 大きく溜息をつき、相方の早川が几帳面にまとめた資料に目を通していると、濱田が肩越しに頭を出した。
「おい、今日はデパートの聞き込みだと言ってたな。そっちは早川に任せておまえ、館山まで付き合えよ。榊原江里香の墓が出来たそうだから墓参りに行こうと思ってな」
「行きます!」
 神崎は、ポケットから車のキーを掴みだすと勢いよく席を立った。


 眺めの良い高台の墓地に、榊原江里香の真新しい御影石の墓石はあった。溢れんばかりの花束と、絶えることない香の煙。生前の江里香を偲ぶ者が、いかに多いか思い知らされる。
「本体を見つけてやらにゃぁ、本当の成仏はできんだろうなぁ」
 線香の束に、ライターで火を付けながら濱田が呟く。頭部が見つかったことで葬式を出すことは出来たが、その身体はまだ見つかっていないのだ。
 花束の中には、バラや百合など墓前に供えるのに派手とも思える華やかなものもあった。今時の女子高校生が好みそうな小物やコスメセットを供えたのは、後輩の女生徒かもしれない。これらを見て、江里香の両親は何を想うのだろう。神崎もその中に花束を置き、両手を合わせた。線香の煙が、風になびく。
「濱田さんは……幽霊とか信じる方ですか? たとえば成仏できない被害者の霊とか……」
 墓石の前にしゃがんで手を合わせていた濱田が、思案顔を向けた。
「ううむ……信じる、とまでは言わないが……。自分が手に掛け殺した被害者の幽霊が枕元に立って、恐ろしくて自首してきたなんて話は良く聞くな。刑務所に入ってからも、殺した相手の幽霊が見えると言って、気が変になるヤツもいるらしいぞ。まあ、大概は罪の意識ってヤツだろうが、そうとも言い切れないことも、たまにはあるそうだ。何だ? 榊原江里香の幽霊でも見たのか?」
「えっ、いえっ、まさか……」
 神崎が、榊原江里香に思い入れがある事を恐らく濱田は気付いているのだろう。しかし、だからといって立ち入ったことを聞かれはしなかった。私怨を挟まず、捜査に専念すると信じてくれているのだ。信頼に、真摯に応えなくてはならないと思う。
「早いとこ犯人を捕まえてやらないとなぁ、神崎」
「……はい」
(もしも自分に彼女が見えたなら……)
 だが冷たく光る墓石を見つめても、そこに江里香の姿は映らない。どこかで期待する自らを嗤いながら、過去の姿に思いを馳せた。
「おい神崎、すまんがこれから『ゆりあらす』に寄ってもらえるか」
 濱田の声で、神崎は我に返る。
「ええ、いいですけど……何か新しい事でも解ったんですか?」
「いや、個人的な事でな。実は以前から釣りの方で、田村さんに世話になってるんだよ。事件が解決したら一緒にと誘われているんだが、そうもいかなそうだし、一度仕事抜きで挨拶しておきたいんだ」
 いかにも重要な事を頼むかのように、濱田が顔をしかめた。私用を果たす時、いつも取るポーズだ。
「あまり長くならないでくださいよ」
 仕方ないな、と、諦めたように神崎は車に向かった。


 石膏像が見つかった夜、榊原江里香の母親、秋本千絵をはじめ関係者が皆『ゆりあらす』に集まっていたため濱田は警察に出向いてもらわずそこで事情聴取をすることにしたのだった。田村も、千絵の心情を思って快く申し出を受けた。
 その時に見た限りでも、確かに濱田と田村は旧知の仲のようだった。おそらく十二年前の事件の時に知り合ったのだろうと神崎は思っていたが、実はそれ以前から付き合いがあったらしい。
 親しげに談笑する二人の横で所在なさそうに座っていた神崎は「ちょっと外に出てきます」と、濱田に言って席を立った。
 田村家の玄関を出て北にまわると『ゆりあらす』の広いハーブガーデンがあり、田村小枝子が丹精込めて育てた多種多様なハーブが見事に育っている。足下に気を付けながら種別に区切られた低い柵の間を抜け先に進むと、その向こうには山吹色のコスモスの花畑があった。風に揺れる儚げな花は美しく、少し哀しくも思える。暫くぼんやりとその花を眺めていた神崎は、突然、射るような強い視線を感じて振り向いた。すると山吹色の波の向こうに、篠宮優樹が立っている。
「やあ、優樹君。学校は?」
 私服姿の優樹に神崎は尋ねた。まだ学校が終わるには早い時間だ。
「右手の怪我で、病院に通ってるんです。今日は午後から授業に出ます」
「怪我を?」
「バイクで、転倒したんです」
 ああ、と、神崎は微笑んだ。
「気を付けたまえ……。それにしても見事なコスモスの花畑だね、山吹色のコスモスなんて初めて見たな」
 優樹は自分の胸ほどもある花をかき分け、神崎の隣に立った。
「杏子が言ってました。この花は亡くなった江里香さんが好きだった花で、田村のおばさんは『江里香さんがもし帰ってくることがあれば、この花畑で迎えてあげたかった』と言っていたそうです」
「……そうか」
 十二年の間、榊原江里香を待っていたのは自分だけではない。田村小枝子もこの花畑を育てながら、友人の娘である江里香を待っていたのだろう。
「江里香さんと、付き合ってたんですか?」
 突然、優樹に尋ねられて神崎は小さく溜息をついた。
「また、その話かい? 遼君にも言ったが違うよ。同じ学園だったから見かけたことはあるけど、綺麗な人だな、と思ってたくらいで……」
「嘘だ」
「嘘だなんて、何の根拠があるんだ?」
 子供の言うことに本気で取り合うつもりはなかった。しかし何故か優樹には、本気で向かい合わずにいられない何かがある。写真部でのやり取りと同じように、誤魔化しきれる自信がなかった。
「大体、君等には関係のないことだろう?」
「関係ある。俺の大事な友達が苦しんでるんだ、力になりたいと思って当然じゃないか。そのためには何だって出来る。あんたはどうなんだよ。彼女のこと好きだったんだろう? 彼女のために犯人を捕まえたいと思って刑事になったんじゃないのか?」
「君にそんなことを言われる筋合いはない!」
 つい神崎の語気が荒くなった。
「じゃあ、給料のためだけに刑事をやってるのか?」
「……!」
 神崎は言葉に詰まり、拳を強く握りしめた。相手が高校生でなければ殴りかかっていたかもしれなかった。
「神崎、こいつらに力を貸してやってもいいんじゃないか? 案外その方が解決の糸口が見つかるかもしれんぞ」
 いつからそこにいたのか、背後から濱田の声がした。
「濱田さん、しかし……」
「まあ、いいじゃないか。いくら止めても彼等が事件に関わるのをやめるとは思えないしな。下手に動き回られて危ない目に遭うより、情報を共有して協力した方がいいだろう。それに学園のことは彼等の方がよくわかる。ただし、だ、どんなことでも必ず報告することと、自分たちの判断だけで動かないと約束出来なければ駄目だ。危険なことになるからな」
「約束できます」
 力強い優樹の答えに濱田は満足そうに頷く。
「よし、それなら学生探偵さん達に会いに行こうじゃないか。神崎、叢雲学園に行くぞ」
 濱田が楽しそうに見えるのは気のせいか? 神崎は優樹を一瞥すると、車に向かった。


 昼休み、教室に顔を出した濱田から事情を聞き、遼はまた複雑な感情にとらわれていた。警察の情報を得られる理由が、神崎の心を動かした優樹の言葉だったと知ったからだ。
(やっぱり僕は、優樹がいないと何も出来ないんだろうか?)
「何だ、深刻な顔をして。ははぁ、またつまらない被害者意識に悩んでるんだろう? いい加減素直になれよ」
 教室で考え込んでいる遼の肩を、迎えに来たアキラが叩いた。
「僕にとっては、重大なことなんです」
 俯けたままの顔を覗き込まれて、赤面する。
「篠宮はおまえのために自分に出来ることをやっている。ありがとう、で、いいじゃないか。何でそう、ムキになるかな?」
「別にムキになってる訳じゃないですけど、あまりにも一方的なのが嫌なんです」
「そうじゃないと思うけどなぁ……ま、いいや。神崎刑事が部室で待ってるぞ、行こうぜ」
 渋々席を立った背中を、アキラが押した。

 連れだって写真部に向かう途中、部活に出られないことを八街に話すため美術室を覗くと、代わりに部長の来栖弘海が出てきた。
「最近不真面目だな、秋本。幽霊部員は除名することになるぜ」
「……すみません。文化祭用の作品は今週中に提出しますから」
「ああ、そうか。うっかりおまえの作品スペースを忘れるところだった。今日、展示レイアウト決めることになってたからな」
 来栖は冷たい笑みを浮かべたが、後に立つアキラを認めて急に顔色を変えた。誰に対しても居丈高な物言いをする来栖だが、どういう訳かアキラが苦手なようで、その事を知っているアキラは時々来栖をからかうのだ。
「出来ればおまえの気色悪い作品は、仕切で区切って別ブースにしてくれると助かるなぁ……。もし必要なら写真部にブラックライトがあるから貸してやるぞ、雰囲気出ると思うぜ」
 遼の代わりにアキラがすまして切り返すと、来栖は面白く無さそうに顔を背けた。
「ふん、秋本も物好きだな、こんなヤツとつるんで。せいぜい、つられて留年しないように気を付けろよ」
「悪いねぇ、秋本君は、おまえより俺の方が好きなのさ」
 いまいましそうに舌打ちして、踵を返した来栖をアキラは笑って見ていたが、いきなり思いついたように「しまった!」と呟く。
「……これ以上あいつの風当たりが強くなったら、俺のせいだな。おまえに悪い事しちまった」
「平気ですよ、行きましょう」
 無造作に髪を掻き上げ申し訳なさそうな顔をしたアキラに、遼は笑顔で応えた。


 写真部の部室で学生と向き合った神崎は、まるで取り調べを受ける加害者のような居心地の悪い気分だった。自分から協力を申し出たはずなのに、「やはり若い者の相手は若い者が」と、勝手な理屈を言って濱田は離れたところから様子を伺っている。努めて平静を装ってはいたが優樹との大人げないやりとりがまだ差し響いてか、いつもの調子が出ない事を苦々しく思いながら、神崎は口を開いた。
「それで……君達はいったい何が知りたいのかな? ただし何度も言うようだが江里香さんと僕は付き合っていたわけじゃない、これは本当だよ。……彼女が好きだった事は否定しないけど、時折美術室に姿を見に行っていたくらいなんだ」
 言い終えて神崎は大きく息を吐いた。まさか高校生相手にこんな事を言うことになろうとは思っても見なかった。年甲斐もなく恥ずかしくなり、脇に冷や汗が滲んだ。
「神崎刑事が僕等の質問に正直に答えてくれたことに感謝して、こちらからも一つ、最近解った情報を提供します」
 アキラの言葉に、神崎は表情を変えた。彼等は思いの外早く、戯れ言から解放してくれるようだ。
「警察は成田先生がこの春、都心のホテルで開かれた大学の同窓会に出席したことを知っていましたか?」
「いや、初めて聞く話だ」
「御主人も知らなかったようですからね……。ところで成田先生はあまりパソコンが得意なほうではなくて、職員室のPCは決められたプログラム以外絶対にいじらなかった。それでもたまにネットを覗く必要があったみたいで、その時は理学部のPCを利用していたんですよ。操作方法は理学部の学生に聞いていたようです。アクセスしていたURLは彼女の出身大学のホームページで、同窓会用の掲示板が設けられていました」
「調べてみたのか?」
「掲示板を開くためにはパスワードが必要でしたが、理学部の友人がなんとかしてくれたんです」
 なんとか、とはどういう事なのかこの際聞くまい。
「掲示板の内容ですが、同窓会前の記録は打ち合わせと近況報告、同窓会後からはコミュニケーション用になっていました。実はその中のスレッドに、この夏房総半島を旅行しようというグループのものがあったんです。成田先生はここに書き込みをしていて、どうやら幹事の一人だったようですね」
 いつかは警察もそこまでたどり着けただろうが、やはり学校での調査は学生にかなわないようだ。濱田を伺い見ると、やはり感心したように頷いている。
「旅行は二泊三日。館山での宿泊場所やスケジュール、メンバーなどはこの中に入っています。男性も数名いましたよ。ちなみに成田先生のご主人は市の観光課のリゾート視察とかいう名目で、海外出張中でした」
 一本のメモリースティックを、アキラは神崎に渡した。
「かなわないな、ここまでやられたら立つ瀬がないよ」
「いえ、僕等に出来るのはここまでですから」
 アキラが微笑む。
「それじゃあ、僕の方は何を話せばいいかな?」
「検死報告を、教えてください」
 神崎は頷き、手帳を取り出した。
「詳しいことが知りたければ後で書類を用意するから、くれぐれも警察のコンピューターにハッキングなどしないでくれよ」
 念のためアキラに釘を差し、手帳を開く。
「ミイラ化した頭部からは、余り多くの手掛かりを得られなかったんだが……榊原江里香の髪と皮膚から微量のシリコン化合物と無発泡ポリウレタンが発見された。これは一人目の被害者、山本葉月の髪に付着していた物と同じだった」
「両方ともフィギュアモデルに使う物です」
 遼が呟くと、神崎が鋭い視線を向けた。
「遼君は美術部だったね、じゃあ良く知っているんだ」
 しかし遼は、首を振る。
「美術部では普通、そんな物は使いません。シリコンで型どりして樹脂を流し、フィギュアモデルを作っているのは来栖先輩だけです。あの人、映画の特殊メイクアーティストを目指していて、よく美術室でモンスターのマスクとか縮小スケールフィギュアとか制作してますから」
「それじゃあ、来栖が関係あるんだな?」
 納得顔の優樹を、呆れて佐野が小突く。
「篠宮、十二年前来栖はまだ六歳だぜ。いくら何でも無理だろう?」
「えっ? あっ、そうか!」
 『ゆりあらす』で感じた、優樹の威圧的な雰囲気。今それは微塵もなく、素直な学生の姿に神崎は苦笑して先を続けた。
「警察の方でも、犯人は薬物で被害者を昏睡状態にしてからマスクの型どりをしたと見ている。血液からモルヒネらしき成分が見つかってね、意識のないまま型取り中に窒息した可能性が高い。山本葉月の首には幅の広い布のような物で絞められた痕があり、一度気絶させられてから薬物を皮下注射されたようだが、榊原江里香のケースは不明だ。乾陽子の場合は、成田智子と同じく首の骨が折れていた。同一犯人だとすれば、気絶させるつもりが力余って首の骨を折ってしまい、痕跡を消すために『村雲神社』境内から投げ捨てたと思われている」
「では犯人の目的は……生きた女性の頭部像制作?」
 アキラの言葉に、その場の全員が黙した。高校生相手に話すべきではないと神崎は再び濱田に目を向けたが、その表情は隠し事は無用だと言っている。
「……おそらく、須刈君の考えた通りだ。科捜研の話では石膏像の表面からも同種のシリコンが見つかっていてね。型取りしたマスクで顔を作り、首から胸部と髪の造形は犯人自身が制作したと思われている。どうやら犯人は、かなりの美術的才能の持ち主らしい」
「それもかなり、特殊な嗜好の持ち主ということか……。神崎刑事、学園の卒業生で過去に来栖みたいなヤツがいなかったか、俺たちで調べてみますよ。それから石膏像を運んだ人物に必ず成田先生は協力しています。あの先生が、自分の管理しない物を美術教室に置いたままにしておくことはあり得ませんから」
「了解したよ、須刈くん。県警に帰ったら成田先生の事件と十二年前の事件を関連づけて捜査するように上に進言するつもりだ。では、今日の所はこれで失礼するよ」
 時計に目をやってから手帳をしまい、神崎は席を立った。と、出口に向かう背をアキラが呼び止める。
「あっ、そうだ、神崎さん。先ほど渡したメモリーを調べれば解る事ですが、成田先生の旅行日程には外洋クルージングが含まれていました。実は、海洋レジャーのレンタル会社を経営している秋本の叔父さんが、クルーザーを借りた場所を調べてくれるそうなんです。それで……出来れば神崎さんに同行して貰いたいんですよ。義理堅い篠宮が、濱田さんの信頼を絶対裏切りたくないって言うものですから……」
 確かに、これから警察でメモリーを検索したのでは彼等ほど迅速に動けない。とは言え、優樹が濱田と約束したことをアキラも聞いているのだろう、たとえ危険性のない事でも自分たちだけで動いては、せっかく得た信頼を失う事になる。
「そうだね、僕も同行しよう」
 神崎の了解にアキラは優樹と顔を見合わせて、ほっとした表情になった。
 好結果を得た判断に満足顔の濱田が、報告のために戻った神崎を見上げて、にやり、と笑う。
「面子なんざくそ食らえ、だ。どんな手段を講じても、必ず犯人を捕まえてやる。いいな、神崎」
「はい……!」
 当時、愛と言うにはあまりに幼い感情だった。ただ、憧れの女性だった。それでも守れなかったという悔恨の想いが、刑事という職業を選ばせた。優樹に指摘されて怒りを覚えたのは、紛れもない事実を突きつけられたからだ。たとえ時効が来ようと、何年かかろうと、自分一人でも必ず犯人を見つけるつもりだった。しかし同じ想いを抱く者がいる。神崎にはそれが、嬉しかった。

 見送りに出た四人に挨拶して駐車場に向かった神崎は、正門を出たところで、ふと通り過ぎた風に学生だった頃の記憶が蘇った。改めて学園を振り仰げば、夕日を照り返し茜色に染まる白壁に、好んで夕日の沈む海をスケッチしていた江里香の端正な横顔が、西日に染まって美しかった事を思い出す。意識して触れまいとした幻の話を気まぐれだと心に言い訳しつつ、神崎は遼に聞いてみる気になった。
「君には、何が見えるんだ? もし本当に彼女が見えるなら、なぜ犯人がわからない? いったい誰が江里香さんを……」
 遼は、悲しそうに微笑んだ。
「僕が見えるのは、亡くなった人の強い想いやショックが焼き付いた断片的な空間です。だから残念ながら犯人を見ることは出来ませんでした……。でも今回は少し違います。彼女は多分、神崎さんが好きだったんじゃないかな? だって貴方がいる時に見える姉は、いつも優しい顔だから……」
 神崎は目を伏せ、踵を返した。まなじりに込み上げてくるものを、彼等に見られるわけにはいかなかった。