〔四章〕
     ―1―

 館山港から少し離れた所にある小さなマリーナに、大貫直人の経営するマリンステーション『バウスプリット』がある。ここでは浜辺でのキャンプやバーベキューのためのレンタル用品が豊富に取り揃えてあり、ウインドサーフィン、ウェィクボード、ヨットなどの体験スクールや、小型クルーザーでの外洋クルージングなども行っていた。田村のペンション『ゆりあらす』の釣り客を乗せるクルーザーも、大貫が回しているようだ。
 三階建ての自社ビルは、一・二階が店舗兼事務所になっていて、三階が大貫の居住区になっていた。一人暮らしには広すぎて、と、笑う大貫の言うとおり、招き入れられたリビングは仕事柄多くの来客を迎えるためか、かなりの広さがある。進められるまま神崎は、同行した秋本遼、篠宮優樹、須刈アキラと共にソファに座った。
「忙しいところを、申し訳ありません」
 神崎の丁寧な挨拶に、とんでもない、と、大貫は手を振る。
「忙しいのは従業員だけで、私の方はそれほどでもないんですよ。おっと、こんな事を言うと専務に怒られるかな」
 日に焼けた健康的な顔で明るく笑う大貫に、神崎は好印象を持った。遼の叔父だと言われれば、どことなくその面影があるような気もする。
「今日は、江里香のことでいらしたわけではないそうですね。こいつらから聞いていますよ」
 いたずらっぽい顔で、大貫が遼と優樹を顎で指した。
「ええ、実は先日、叢雲学園で殺害された成田智子さんのことで伺いました」
「クルーザーをレンタルした会社を知りたいとの事でしたね。同業者に当たるまでもなく、彼女がクルーザーを借りたのは当社ですよ。これが、その日の書類とメンバーです」
 大貫が差し出した書類には、成田智子を含め、五人の女性と三人の男性の名があった。
「クルーザーを操縦したのは従業員の方ですか?」
「いえ、確かこの中の一人が……ああ、この久保田という人ですね。この人が一級船舶免許を持っていらしたので、操縦はご自分でなさったんです。ただ、サポートという形で私が一緒に乗船しました」
「えっ、ではこの三人の男性の様子がおわかりですね? 誰か特に成田智子と親しくしていた男性がいませんでしたか」
 期待を込めた神崎の言葉に、大貫は困ったような顔で溜息をつく。
「そうですね、あまり良くは覚えていませんが……。なにしろ久保田さんの慣れない操縦の方が気になっていましたから。しかし男性の方は、皆さん女性の方のご主人だったようですよ。ほら、上の姓が一緒でしょう?」
 言われてみれば、確かにそうだ。
「そう簡単に成田先生の不倫相手が解ったら苦労はないですよ、神崎さん。相手も不倫なら、奥さんがいても不思議じゃない」
 あからさまな失望をアキラに慰められて、神崎は少し悲しくなった。学生相手に立つ瀬がない。
「不倫、とは?」
 いぶかしそうに聞き返した大貫に、遼が答える。
「成田先生が付き合っていた相手は、もしかしたら……いえ多分、姉の榊原江里香を殺した犯人に関係があるんです」
「えっ?」
 これまでの経緯を遼が話す間、眉根を寄せ思案顔をしていた大貫の表情が、犯行目的に触れると見る間に怒りで紅潮した。
「ううむっ、なんて事だ! あの子は私にとっても大切な子だったんだ! 小さな時から良く懐いてくれて、とても可愛がっていた。それをっ……!」
「お気持ちは、察します……。犯人を捕まえるために僅かな手掛かりでも構いません、思い出して頂けませんか? 成田智子に、変わった様子はなかったでしょうか?」
 言葉に詰まり両手で顔を覆った大貫は、神崎の問いかけに唸るような声で答えた。
「申し訳ないが今は、何も……。しかし何か思い出したらすぐに連絡します、どうか……」
 大貫の願いを諾して、神崎が頷く。
「犯人は必ず、私が逮捕します」
 ようやく大貫は、顔を上げた。


 このまま館山の実家に帰るため、遼は他の三人と別れ『バウスプリット』に残った。優樹とアキラは神崎が車でそれぞれ送り、『ゆりあらす』で待つ濱田を拾ってから千葉に戻るらしい。ただし濱田の場合は、捜査と関わりのない私用なのだが……。
 駐車場に向かう三人の姿を窓から見送る遼の肩に、大貫は手を置いた。
「いい友人に恵まれているようだな、遼」
「うん、まあね。ちょっとお節介すぎるヤツもいるけど……」
「優樹君のことか? 罰当たりなことを、言うもんじゃない。友人の大切さは失ってからじゃ取り返しがつかないんだぞ、大事にしなくてはだめだ」
 車に乗り込む前に、優樹がこちらを見上げた。遼は、手を挙げかけたが途中で止める。片意地を張っているのは自分の方だと解っていた。だがどうすればいいのだろう?
「叔父さんと田村さんみたいに、すべてに対等で信頼しあえる仲が羨ましいな。いつも誰かに助けて貰っている自分が情けなくって……何とかしようと思っているのに、結局一人じゃ何も出来ないんだ。」
 遼の肩に置かれた大貫の手に、心なしか力が入った。
「一人で、やる必要などないと思うがね。頼られる事に応えるのは、友人としての喜びだよ」
「でも、一方的に頼ってばかりじゃ厭なんです。僕に出来る事は何もないんだって、思い知るばかりだ」
「それは、違う」
 断固とした口調に驚いて、遼は大貫に向き直った。
「友人に手を貸してもらい何かを乗り越えた時、それは信頼に応えた事になるんだ。応えてくれると信じているから力を貸してくれる。今のおまえの考え方は、一方的な受け身だ。彼はそんな事を……望んではいないと思うよ」
「あっ……」
 急に自分の女々しさが恥ずかしくなり、遼は赤面した。それを見て、大貫が笑う。
「おまえには、おまえの役割がきっとある……焦らん事だ。信頼に応え続けるのは、手を貸す方よりも難しい。焦って方向を見誤れば、取り返しの付かない事になりかねん」
「叔父さんと田村さんのように、なれるかな?」
「私たちのように、か? そうだな……」
 一瞬、眉を曇らせ大貫は黙したが、直ぐに笑顔に戻る。
「同じにはならんよ、多分ね……」
 失望感から遼が目を伏せると、大貫は補足した。
「そんな顔をするな、遼。多分もっと良い関係が築けると言いたかったんだよ。しかし、いつまでもガキだと思っていたが、一人前の悩みを抱えるようになって……そのうち女性関係の相談をされるかもしれんな」
「その時は、叔父さんになんか相談しません」
「ははは、そうか、生意気なことを言うようになったな。さあ、お母さんが待ってるぞ。今日は君のお父さんと朝まで飲み明かす約束でね、酒を仕入れていかなきゃならないから市街の方を廻っていくよ」
「あっ、それなら僕も欲しい画材があるんです。寄ってもらえますか?」
「いいとも。しかし君のお父さんは、近頃酒が弱くなったんじゃないかね? つぶれて寝てしまう事が多くなった」
 叔父さんは飲み過ぎですよ、と、言いかけて、遼は言葉を飲んだ。

 館山市は、この地域で一番大きな市である。この街で遼は、必要な画材をいつも決まった店で購入していた。駅から少し離れたところにあるその店は、こぢんまりとしていたが品揃えに不足はなく、近くに中学・高校があることもあって数多くの学生が利用している。
 大貫は後で迎えに来ると言って遼を店の前に降ろし、自らは大手のディスカウントストアに酒を仕入れに行った。財政に不自由は無いはずだが、会社を興したばかりの時の苦労が身に付いているのか無駄遣いが嫌いなようだ。しかし、いざという時には全てを投げ出す懐の深さがある人間だと、遼の両親も田村も認めており、遼もその叔父を尊敬していた。だが大貫も遼の父も大酒飲みで、そこに田村が加わるとどれだけのアルコールを消費しているのか分からなくなるほどだった。夜通し続く宴会に遼の母は呆れて、いつも先に休んでしまい、こればかりは遼も尊敬出来なかった。
 必要な物を買い揃え、時間潰しに狭い店内を歩き回りながら遼は画材を物色していた。自動ドアが開く音がして、大貫が迎えに来たかと入り口に目を向けると、来栖弘海が店内に入って来るのが見えた。どうやら来栖も、この店を利用しているらしい。
(出来れば、顔を合わせたくないな……)
 遼は来栖に見つからないように棚の陰に隠れ、そっと店内から外に出た。
 大通りに出て大貫が車を停めやすい所で待とうと交差点に向かって歩き出したとき、その肩を誰かが強く掴んで引き戻した。
「やあ、秋本。こんな所で会えるとは思わなかったな……。こっちに来いよ、話があるんだ」
 肩越しに耳にかかった来栖の声に、遼の背筋が凍り付いた。
「じきに叔父さんが迎えに来るんです、話なら学園でしてください」
「冷たいこと、言うなよ。すぐに済むからさ」
 有無を言わせず来栖は、遼を画材店の横にある資材が積み上げられた細い路地の蔭に連れ込んだ。
「何ですか? 話って」
 来栖の様子は学園で会う時と違い、その身体を得体の知れない黒い霞のような悪意が取り巻いているのが遼には見えた。努めて強気に振る舞おうとしたが、その霞に対して自分の気力が萎えてゆくのを感じる。
「前から頼んでるだろう? 卒業制作にどうしてもおまえをモデルにしてブロンズ像を作りたいんだ。卒業したらもう、二度と頼めないだろうからな。引き受けてくれよ」
「嫌です」
「何故嫌なんだ?」
 生理的にどうしても来栖の事が好きになれない。その相手と毎日顔を付き合わせることなど真っ平だと正直に言わない限り、つきまといから逃れることは出来そうになかった。しかし、遼は言葉を発することが出来ない。霞が不気味な黒い糸となって、身体の自由を奪っていた。
「変だな、いつもはもっと近づきがたい感じがするんだが……」
 どうやら来栖も、そのことに気が付いたらしく口元を歪めるようにして笑った。
「まあ……いいか。それなら今ここで、よく観察させてもらうさ」
 来栖は遼の肩をコンクリートの壁に押しつけ、その造形を記録するかのように両手で顔を撫でまわした。額から頬骨、眼窩の窪みから鼻骨へと指でなぞる。
「嫌……だ。やめて……」
 右手の親指が唇を割り、顎のラインから喉元を伝う左手が、シャツのボタンをはずした。
「秋本、俺は前からおまえが好きだったんだぜ」
 来栖の息が髪に掛かる。
(優樹……!)
 遼は堅く目を閉じ、助けを求めて優樹の名を呼んだ。
「痛っ! なんだよっ!」
 ざわつく感覚から解放されて、遼はそっと目を開いた。すると大貫が来栖の右手をねじり上げている。
「遼、こいつはおまえの知り合いか?」
「……美術部の、先輩です」
 大貫は、突き放すように手を離した。
「では殴るのをこらえるとしよう。二度と遼に近づくな」
 来栖は右手をさすりながら、逃げるようにその場を立ち去った。
「大丈夫か?」
「……はい」
 大貫が、力無い足取りの遼を支えた。その肩に寄り掛かり、情けなく思いながらぼんやりと、自分がいつも何に護られているのかが解ったような気がした。

 遼が心配するまでもなく、大貫は街であったことを両親に話す様子はなかった。ただ、「あの手の人間には近づくな」とだけ忠告したが、その語調にはかなりの怒りが感じられた。
 この週末は客がないといって夜からは田村も加わり、いつもの宴会になる。ただ、以前と違って最後には皆黙り込み、今は亡き江里香の想い出話となるのだった。あの事件からほぼ一ヶ月が過ぎ、大貫や田村夫妻の気遣いのおかげで母、千絵にも徐々にいつもの元気が戻ってきたようである。遼にはそれが嬉しかった。
 翌日、昼近くなってやっと飲酒の痕跡から抜け出た田村が帰り支度をしているところに遼は顔を出した。
「田村さん、僕も『ゆりあらす』まで乗せてってくれませんか?」
「ああ、構わんよ。優樹に用があるのかい?」
「はい、どうしても彼に会わなければいけないんです」
 遼は、優樹に会って確かめたいことがあったのだ。
「そうか、それがいい」
 心得たとばかりに、田村が笑った。

 遼は車の中で、田村に聞きたいことがあった。しかしなかなか話を切り出すことが出来ない。
 優樹の母親は、もう十年近く意識の無いまま寝たきりで、千葉の大学病院に入院している。そのため田村夫妻が仕事で不在がちな優樹の父親に頼まれ、小学校の頃から親代わりになっていたのだが、その唯一の身内である父親も数年前に病気で亡くしていた。
 遼とは違った意味で、辛く、悲しい思いをしているはずなのに優樹はそれを表に出さない。他人に優しく、自らに厳しいのだ。なぜ、そんな風に生きられるのか? 遼にはとても、理解できない事だった。
「どうした、遼君? 元気がないな」
 海岸沿いを走る車の窓から、ぼんやり海を見ていた後部座席の遼に、田村が声を掛けた。
「田村さん、僕は……優樹に必要な人間なんでしょうか?」
 田村が、ふっと、笑みを浮かべたのが、バックミラー越しに見える。
「うーん……遼君は、優樹をどう思う?」
「えっ?」
「自信家で、迷いのない人間だと思っているんじゃないのかい?」 
 胸の内を見透かされ、遼は黙り込む。
「優樹は、中学に上がる少し前にお父さんを亡くしているだろう? あれからかな……あいつの正義感が、見ていて危ないくらいに表に出てきたのは。いつも理不尽なことに挑戦的で真っ直ぐすぎるんだよ、周りから見ると煩わしく思うぐらいにね。だが、あいつが自分の中の正義や真実が解らなくなって暴走した時、止める事が私に出来るだろうかと時々心配になるんだ」
「そんな事、あり得ない」
「そうかな? 君が考えているほど、優樹は強くない。抑え込んだ強さは、実はとても脆いものなんだよ。むしろ自分の弱さと折り合いながら生きてきた者の方が、よほど強い心を持っている。例えば遼君、君のようにね……。だからこそ、優樹の振り下ろす切っ先を止める事が出来るのかもしれない」
 思いがけない田村の言葉に、胸の動悸を収めようとして遼は大きく息を吸った。
「僕……が? まさか、だって、僕は何も……」
 言葉尻が震える。
「何故だろう、私にも良く解らないが……ただ言える事は、君の中にある強さに優樹は逆う事が出来ないようだね。気付いていないのかい? 私が見る限り、遼君の主張にはいつも驚くほど素直に従っているんだよ? 普段は文句の多い方なんだが」
 ミラーに、さも可笑しそうに笑う田村が映った。
「君と優樹には、ただ行動を共にするだけの友人関係ではなく、お互いを支え合えるような強い友情を育ててほしい。二人とも私にとっては大事な息子のようなものだからね。大貫とも、よくそんな話をしているんだ」
「叔父さんと、僕たちの事を?」
「ああ、大貫は特に君が心配らしいね。君を託せる友人になって欲しいと、優樹に望んでいる」
 思えば大貫は、いつも父よりも身近にいて遼の面倒を良く見てくれたし、理解しようとしてくれた。両親さえも疎んじた、遼のヴィジョンの話さえ黙って聞いてくれたのだった。その大貫が、庇護のひさしを閉じようとしているのだと、遼にも理解できた。これからは全てを、自分の力で乗り越えなくてはならないという事なのだろうか? 果たして自分にそれが出来るのか? とても自信が持てない。
「大貫の叔父さんと田村さんは……いつから親友なんですか?」
 起こすべき行動の切っ掛けを捜し、遼は尋ねた。田村と大貫の関係に、手掛かりがあるかも知れないと期待する。
「そうだな……中学校に入ってからだね。実は、そのころの大貫は家に引きこもりがちで、暗い男だったんだよ。今じゃ想像もつかないだろうけど」
 初めて聞く話に、遼は驚いた。経営者の立場でありながら自ら率先して海に出てゆく大貫が、過去に田村の言うような子供だったとは思えない。
「自分の部屋で帆船模型ばかり組み立てていたらしいんだが、中学一年の時の帆船模型コンクールで海洋冒険小説をモデルにした大貫のジオラマ作品が最優秀賞をとってね。その展示会を見に行き、あまりに見事な作品に感銘を受けた私の方から、大貫に声を掛けたのさ」
「あっ、じゃあもしかして『ゆりあらす』に置いてある帆船模型は……」
「知らなかったのかい? 大きいのは全部、大貫の作品さ」
 遼はペンションのリビングや食堂、玄関に置いてある見事な帆船模型を思い出した。
「大貫ほどではないが、私の作品もあるんだよ。ボトルに入っているのがそうだ」
 食堂の各テーブルの上にある、ブランディやウィスキーの中の帆船模型は、いかにも大酒飲みの田村らしい作品だ。
「話すうちに、二人とも同じ海洋冒険小説のファンだと解って意気投合してしまったんだ。それからはずっと腐れ縁で、大貫は模型作りを私に教え、私は大貫に釣りを教えた。当時、私の父が小型漁船で漁をしながら民宿を経営していたから、結構本格的に手伝ったりしたんだよ。最初は渋々だった大貫も、終いには船舶免許を取るほどになって……まさかそれが元で、あの会社を興すことになるとは思わなかったけどね」
 明く笑った田村に対して、遼は再び暗い顔になった。
「やっぱり……僕に出来る事なんか無い。悔しいけど、叔父さんと田村さんのようにはなれないと思います……」
 やれやれ、と、田村が溜息をつくのが解った。大貫も、田村も、アキラでさえ、遼には遼の役割があるという。しかし、目に見えないものを、どうやって信じればいいのだろう?
「どうやらまだ、私の言葉が信じられないらしいね。君は、自分の価値観だけで優樹を見ているんだよ? こういう人間だと決めつけているんだ。それではあまりに優樹が気の毒だな……目に見えるものだけが真実ではない。他人を、理解なんて出来はしない。出来ると思うことは傲慢だ。しかし、一人の人間として受け入れることは出来ると私は思っている。彼を信じて、受け入れてごらん。そして、自分を信じるんだ。優樹のために、君にしかできない事が必ずある」
(優樹を信じて受け入れる……?)
 心のどこかにずっと、わだかまりがあった。優樹は、己を誇示するために遼を擁護しているのだと疑っていた……。いつからそう思うようになったのだろう? 優樹に限って、あるはずが無いのに……。
 初めて話しかけられた幼い時の記憶が、鮮明に脳裏に甦る。幼稚園の年中組だった五歳の時、遠足で行った広い公園で遼は、居るはずのない動物の幻に脅え他のお友達と遊ぶ事が出来ずにいた。お砂場で蹲る犬。芝生で羽を休める鳩。ジャングルジムのカラス。滑り台の雀。そしてベンチに横たわる、年老いた猫。ベンチに置かれたリュックや砂場道具に押しつぶされ、遼には猫が苦しんでいるように見えた。怖くて、悲しくて、でも誰にも言えずに泣いていたのだ。
 その時、優樹が遼に話しかけてきた。なぜ泣いているのか尋ねたのだ。こわごわ見たままを遼が話すと、優樹はいきなりベンチのリュックや砂場道具を全て放り投げ始めた。気が付いて駆けつけてきた先生は、最初は怒っていたが優樹の話を聞いて、荷物を隅に片づけてくれたのだった。先生が行ってしまってから、遼は優樹に叩かれると思って怖くなった。乱暴者だと思って、避けていたからだ。でも優樹は、遼を見てにっこり笑いかけてくれたのだ。
 あの時からずっと、優樹は遼を信じてくれていた。溶けるように猜疑心が消え、ようやく優樹の不器用なアプローチに、遼は気付いた。一時も早く、会いたかった。
「僕にしかできない事が何か、今は解らない。だけど優樹を信じて受け入れる事はできます、もう迷わない」
 しっかりとした遼の言葉に、田村は無言で頷いた。


 海が一望できる、『ゆりあらす』の白い板張りのテラスには、田村が作った無骨で頑丈そうなデッキチェアーが二つ置いてある。そこに座ると今の時期、山吹色のコスモスが乱れ咲く向こうに遠く広がる青い海が、鮮やかに美しかった。
 宿泊客のある日はテラスに入ることが出来ないのだが、今週末は珍しく予約がない。昨夜から不在の田村に妻の小枝子は不機嫌な様子だが、優樹がもう何時間もテラスで海を見ているのを咎めようとはしなかった。
 風が、コスモスを揺らす。この花は見た目の儚さとは裏腹に、丈夫で逞しい花なのだと小枝子が言っていた。強い風をゆらゆらとかわして倒れることもなく、痩せた土地でも群生し、立派に花を付ける。そんなしなやかな強さを、自分も持ちたいと優樹は思う。正面からぶつかることしか出来ないから、自分も相手も傷つけてしまう。しかしそれ以外どうすればいいか解らないのだ。
 握りしめた右拳を、デッキチェアーの肘掛けに叩きつける。痛みで少しの間でもこの憤りを忘れることが出来るのか……。
「よしなよ、そんなことしてたらいつまでたっても怪我が治らないよ」
 背後に遼の声を聞いて、優樹は振り返った。
「なんだ……俺に用か?」
「それ以外に、何があるのさ」
 遼の笑顔に優樹は赤面する。
「ここ、いいかな?」
 並んだデッキチェアーのもう片方に、遼は腰を下ろした。
「ここからの景色、僕も好きだな。コスモスが綺麗だ」
「あの花は、見た目より強い花なんだってさ。……おばさんの受け売りだけど」
「そうなんだ」
 遼の白く細い項からなだらかに肩に続く稜線と、風で顔に掛かった髪をかき上げるすんなりと伸びた腕が、かの花の姿に重なり、優樹は目を逸らした。
「おまえの姉さんは、きっと、おまえのこと大好きだったと思うよ……」
「うん……僕も大好きだった事、思い出した」
 二人は言葉を探してしばらく沈黙した。やがて優樹は決意して口を開く。
「俺のこと、迷惑に思うならそう言えよ」
「……好きだよ」
 予想外の言葉に狼狽えると遼が可笑しそうに笑い、また、顔に血が上る。
「ただ僕は、太陽みたいな君が羨ましかった。僕にとって、君は沈まない太陽だったから」
「俺が、沈まない太陽……?」
 優樹は天上を仰ぎ見た。澄んだ大気の向こう、紺碧の空に輝く太陽は、真夏のものよりかえって焼き付くように眩しい。
「俺が太陽なら、知らずに海を干上がらせて花を枯らしてしまうんだろうな。誰かを傷つけても、きっと気が付かないでいるんだ」
 睨むように遠くを見つめ、優樹は強く唇を噛んだ。口腔内に、血の味がしたが構わなかった。痛みで抑え付けたい、何かが胸に込み上がる。ずっと居場所を捜し続けてきた。それがどこにあるか解らなかった。ただ誰かのために何かをしていれば、自分の存在価値を確認できた。それが自分の弱さだと、知るのが怖かった。
 だが遼に拒絶され、厭でも向き合わなくてはならなかったのだ。どこかで依存してはいなかったか? 遼の前に立っていれば、自分でいられるのだと……。拒絶されて当たり前だった。本当は、違う気持ちだったはずだ。自分が遼に求めていたのは、そんないい加減なものじゃない。欲しかったのは……信頼だった。
「俺は、難しい事を考えるのが苦手だ。思った事を、思った通りにやっちまうんだ。相手がどう感じるかなんて、考えた事もなかった。悪かったな……今まで随分、厭な思いをさせちまったんだろう?」
 すっ、と、遼は椅子から離れ、優樹の傍らに立った。
「馬鹿だな、そんなわけないだろう? 素直になれなかったのは僕の方さ。君の気付かない事は、いつだって僕が教えてあげるよ。僕が……君の居場所になれるといいな、太陽を覆い隠す叢雲のように」
 優樹は顔を上げ、遼を見つめた。
「……ああ、おまえにしか、頼めねぇよ」
 心地よい風が二人を包み込み、海の向こうへと吹き去った。遼の信頼を得たと理解した優樹に、新しい力が満ちてくるのが解った。


 今夜は泊まるようにと田村に言われて、遼は優樹と並んで夕食をとった。久しく無かった楽しい食事に、改めて自分が今までどれだけ心に負担を感じていたかが解る。優樹もまた、同様の想いを抱いていたのだろう、その笑顔は何かが吹っ切れたように明るい。
 賑やかな食卓を喜んで田村はつい酒のグラスを重ねようとしたが、昨夜の品行が災いして小枝子にきつく止められてしまった。がっかりした顔など意にも介さず、杏子がグラスを取り上げる。
「田村さんも大貫の叔父さんも飲み過ぎですよ、いつも母が呆れている。昨夜はいったいいつまで飲んでたんですか? 僕が寝たのは午前一時頃だったけど、まだ二人とも宵の口って様子だったな」
 遼は呆れ顔をして見せた。
「ううむ、そうかなぁ……。しかし遼君、大貫は見た目ほど飲んではいないんだ、実はそれほど酒が強いわけじゃなくてね」
「えっ、そうなんですか?」
「と、言うよりクセが悪くなるところがあるんだ。以前、榊原君と……」
 そこまで言ってから田村は、しまった、と、口を閉ざしたが、遼は聞き逃さなかった。
「榊原さんは、母の前の旦那さんだった人ですね……。教えて下さい、なぜ母はあの人と離婚したんですか? 姉の、江里香さんのお葬式で会った時とても良くしてくれて、別れなければならないような関係だったなんて、僕にはとても思えなかった」
 田村は難しい顔をしていたが、やがて小さく溜息をついた。
「もう、十八年も前のことだよ。どんな別れ方をしたとしても、それを乗り越えるには十分な時間さ。ただ、千絵さんは榊原君を愛してはいなかったんだ。君のお父さん、秋本君のことはとても愛しているように思えるがね」
 にっこりと笑った田村に上手くはぐらかされたような気はしたが、どうやらあまり語りたくない様子である。遼はそれ以上聞くのをやめて、母が話してくれる時を待とうと思った。

 食後に映画を見ないかと、優樹が遼を誘った。ペンションのリビングには立派なホームシアターが有り、数多くのDVDソフトが揃っている。その内容は一通りの話題作と田村の趣味のアクション物、小枝子の趣味のサスペンス、杏子好みのラブロマンスとバラエティに富んでいた。
 二人がその中から戦場アクション映画を選び、プレイヤーにかけたところに杏子が炭酸飲料のペットボトルとグラスを三つ持って入ってきた。途端、優樹が顔をしかめる。
「邪魔するなよ、杏子」
「いいじゃない、あたしも混ぜてよ」
 抗議の言葉を気にも留めず、杏子は遼の横に腰を下ろす。大型の液晶テレビ画面では新作映画の予告編が始まったが、それはかなり過去のものであった。
「そう言えば優樹、あのテレビの上の帆船模型は大貫の叔父さんが作ったって知ってた?」
「えっ、そうなんだ? 俺はどこかの古道具屋で買ってきたんだと思ってたけど」
 遼が田村から聞いた話を教えると、優樹は立ち上がって立派な帆船模型をしげしげと眺めた。
「ちょっとぉ、予告編が見えないじゃない! 座ってよっ!」
 杏子が先ほどの仕返しとばかりに、優樹に抗議する。
「ちぇっ、おまえこの映画のDVD持ってるだろ? 良くこんな甘ったるそうな映画、みられるよな」
「余計なお世話。そんな事言う男は、彼女と映画に行けないわよ」
「女と映画になんか、いかねぇよ」
「あっそう。一生独身、格好いいわねぇ。大貫さんみたいな人ならそれも素敵だけど……。でも千絵おば様よくぼやいてたな、早く身を固めてくれないと安心出来ないって」
 したり顔の杏子に優樹が呆れる。
「おまえ、良くそんなこと知ってるなぁ」
「茶飲み話は女の特権だもの、あたしも混ぜてもらってまーす!」
「ええっ? なんかおばさん……」
 杏子はむっとした顔で優樹を睨んだ。
「馬鹿にしたもんじゃないわよ? あたしのお陰で『ナリちゃん』の不倫のことだって解ったんじゃない。あんな事になっちゃったけど……」
 少し言葉に詰まった杏子は、成田智子の死を思い出した様子で涙ぐんだ。が、それでも自分の存在を認めさせようと躍起になって話を続ける。
「大貫さんが独身でいる訳だって、知ってるわよ」
「へえっ、たいしたもんだな。それ、教えろよ」
 興味深そうに優樹が詰め寄ると、杏子は困った顔になり遼を伺い見た。恐らく気兼ねしなければならない内容なのだろう。
「僕も知りたいな、教えてよ杏子ちゃん」
 また余計な事を言ってしまったと後悔している杏子を、遼が促す。
「千絵おば様、もう五十才近いのにまるで女優さんみたいに綺麗でしょう? 母さんの話だと大貫さんの理想の女性が、どうやら千絵おばさまらしいのよ。だからそれ以上の女性が現れない限り、結婚しないんじゃないかって……」
 杏子の言う通り、遼の母である秋本千絵は、年齢よりもずっと若く見える。看護師という仕事に従事しているためか、はつらつとして明るく、容姿も綺麗だった。他人から母親に似ていると言われると、女顔だと言われているようで遼は余り良い気はしなかったが、遺影で見た榊原江里香が、千絵の高校生時代を想像させる美しい顔立ちだったと思い出す。
「なにしろ初代ミス叢雲だったそうよ。千絵おばさまが入学する前年に、叢雲学園は男子校から共学になったんだって」
「えっ、母さんの母校は東京の方だって……」
 遼は意外な話に目を見開いた。
「知らなかったんだ? 二年生まで叢雲学園だったけど、大学受験のために都心の高校に代わったんだって」
 そこで杏子はまた、何か言いたそうに二人に目配せをした。
「何だ、まだ何かあるんならさっさと話せよ」
 優樹がいらついた声で促すと、杏子は勿体ぶってグラスに入った葡萄色の飲み物を一口飲んだ。
「これはあくまで推測だけど、おば様は弟の大貫さんを避けて学校を変わったんだと思うの。話を聞いてると、なんだかそんな感じなのよね。おば様が榊原さんと結婚した時は、まだ二十歳くらいだったって聞いてるけど、どうやら大貫さんのシスコンが原因だったみたい。だから、あんまり続かなくって……」
「憶測でいい加減なこと言うなよ!」
 優樹の急な大声に驚いて、杏子は思わずグラスを取り落とした。
「なっ、何よ! 私はただ……」
「つまんねぇこと、ぺらぺら言いやがって、だから女は嫌なんだ」
 杏子の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「優樹の馬鹿ぁっ! 大嫌いっ!」
「杏子ちゃん!」
 遼の声に振り向きもせず、杏子は部屋を飛び出した。
 遼はこぼれた飲み物とグラスを片づけながら、気持ちが収まらない様子でテレビのスクリーンを睨んでいる優樹を伺い見た。
「大貫さんを、そんな風に言うなんて俺は嫌だ」
「……仕様がないな、君は。叔父さんのことは僕も好きだよ、でもあの人だって人間だもの色々な事があるんじゃないかな。杏子ちゃんの言ったようなことが以前あったとしても、今、母さんと叔父さんはとても仲が良いんだし……杏子ちゃんも悪く言うつもりじゃなかったと思うよ」
「それでも……杏子が軽々しく言うようなことじゃない」
「僕ならそれほど気にしてない。かえって叔父さんや田村さんが昔どんな付き合いだったのか、何故、榊原さんと母が離婚したのか、知りたいことは沢山あるんだ。あんな風に言ったら杏子ちゃんが可哀想だよ、謝った方がいい」
 優樹は何か言い返そうとしたようだが、そのまま顔を背けた。
「……わかったよ」
 不機嫌そうな声で、しかし素直に返事をした優樹は、まるで先生に叱られた小学生のようだ。今までも何度か諭した事があるが、そう言えば反論された記憶はない。もし田村の言葉が事実なら……。
「なんだよ、にやにやして気色悪りぃな」
 優樹が訝しそうな目を向ける。
「別に、何でもないよ」
 いたずらっぽい顔で、遼は笑った。