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 秋の文化祭、『叢雲青龍祭』まで残り二週間を切り、学園内は慌ただしく、ざわついた雰囲気に包まれていた。毎日、早朝から夕方遅くまで準備に追われる学生達で、校内も校庭も賑やかだ。『青龍祭』とは、本校横浜朱雀校の別名と並んで青龍校と呼ばれているこの学園の呼び名にちなんだものであり、正門の前では巨大な青龍のオブジェを各クラスからの有志と美術部部員が制作中だった。針金とキャンバス地製で出来たこれは、完成を待って高い位置に取り付けられる事になっており、『叢雲青龍祭』当日は、恐ろしい形相で口を開けた青龍が入校する者を威嚇するように見下ろす事になるのだ。
 この週に入ってから、遼も早朝から体育館の端で数人の部員と共に美術部展示用パネルの制作に忙しく働いていた。何しろ部員のほとんどが、そのオブジェの制作の方に行ってしまい人手が足らないのだ。
「いつも早いなぁ、秋本は」
 何よりも早起きが大嫌いなアキラが、この朝は珍しく体育館に姿を見せた。
「天変地異が起きるぞ」
 隣で二人の一年生と共に写真部用のパネルを制作していた佐野がからかうと、遼も同意の仕草で頷く。
「佐野先輩の言うとおりですよ。困るなぁ……青龍祭の日に空から槍でも降られたんじゃ。どうしたんですか? 今日は」
「うーん、ちょっと来栖に聞きたいことがあってさ。あいつ、放課後つかまらないんだよ。どこかに籠もってるらしくてね」
「来栖先輩は、ブロンズの制作で放課後は大抵、館山の鋳物工房ですからね。午後からいないことも多いみたいですけれど、多分朝ならつかまりますよ。あ、丁度来たみたいだ」
 遼が体育館の入り口を指差すと、来栖が手に大量の布を抱えてこちらに向かってくるところだった。
「それじゃあ、ちょっと行って来るか。ところで秋本、おまえも言うようになったなぁ。ま、それくらいの方がいいけどさ」
 アキラは片手を挙げてにやりと笑った。

 展示用の長机に掛ける布は思いのほか重い。こんな事なら最初から誰かに手伝わせれば良かったと、来栖弘海は一旦布の束を床に置いて座り込み、辺りに手すきの者を探した。
「手伝ってやろうか? 来栖」
「……結構ですよ、アキラさん」
 頭上からの声に顔を上げると、アキラが腕を組んで見下ろしている。
「俺に、何か用ですか?」
「まあ、ね。実は少し聞きたいことがあるんだが……」
 不愉快そうに顔をしかめた来栖の傍らに、アキラは片膝をついた。
「そう、警戒するなよ。聞きたいのは、おまえのやってるガレージキットの事さ。ネットの仲間と集まって色々やってるんだって? 制作とか販売とか……」
「お生憎様、知られて困るような悪質販売なんかしてませんよ。なんなら調べてみますか?」
 間近に迫るアキラから目線を外すように、来栖は顔を背けた。どうも、アキラの目が苦手なのだ。穏やかそうな笑みを浮かべていても射るような鋭さがあり、隠し事や偽る事が出来なくなる。冷酷に纏うもの全てを引き剥がされ、素にされてしまう気がするのだ。
「ああ、是非調べてみたいねぇ。出来れば君にも協力を頼みたいんだけど」
 来栖は目線を避けたまま、嘲笑の笑みを浮かべる。
「冗談でしょう? 調べたければ御自分でどうぞ」
「うーん、多分、協力してくれた方が良いと思うよ。そのネット仲間の中に、学園関係者がいないか探したいんだけど……あまり的はずれな調べ方をして、君の大事な御仲間に迷惑を掛けたら悪いだろう?」
 アキラの柔らかな言い方の裏には、有無を言わせない威圧感がある。それに逆らいきれる自信が、来栖にはなかった。
「思ってたとおり、あんたは狡い人だ」
「君に言われたくないねぇ。」
 心外だ、と言うようにアキラは眉をひそめる。
「それじゃあ了解してくれたと言うことで……いつなら時間があるかな、なるべく早くがいいんだけど」
「……今週末、日曜の午後ならいいですよ。それまでは忙しいので無理です」
「日曜日の午後だな? 俺のパソコンで用が足りるか?」
「アキラさん、Macでしょう? 自分のノートPC持って、寮までいきますよ。目的が何かは知りませんが、メンバーのデータが必要みたいだし」
「そういうこと。訳が知りたけりゃその時教えてやるからさ、寮で待ってるよ。じゃあな」
 アキラはその場を立ち去り掛けたが、思いついたようにまた、声を掛けた。
「それ運ぶのなら秋本、呼んできてやろうか?」
 しかし、来栖は慌てて首を横に振る。
「おや? ストーカーらしからぬ反応だな。秋本のことは諦めたのか?」
「言ったでしょう、忙しいんですよ! 用が済んだら出てってください」
 ふうん、と、疑わしそうにアキラは来栖を見たが、それ以上は何も言わなかった。
 その姿が消えるのを待って布の束をようやくパネル横まで運び、来栖は同じクラスである佐野のところに行った。
「なあ、佐野。アキラさんはいったい何を調べてるんだ?」
 誰彼の隔てなく同じ態度で接する佐野は、来栖に対しても特に構えた口の利き方はしない。だがその分、隠し事が出来ない性格で、聞かれたことは相手を選ばず答えてしまう。
「須刈は例の石膏像を作った人間を調べてるんだよ。警察は最初、美術品の制作者から当たってたんだがどうやらそうじゃなくて、フィギュア関係の人間らしいんだな。つまりおまえと同じ畑の人間さ。だからそれを聞きたいんだろ」
「……なるほどね」
 もし自分が先に有力な手掛かりを得ることが出来れば、そのカードを上手く利用できるかもしれない。
(こいつは面白そうだ……)
 来栖は蛇のような執念深い目で、佐野の横で作業をしている遼を眺めた。


 かすかに白みかけた空から、星が一つまた一つと姿を消してゆく。この埠頭から望む鏡ヶ浦から太陽は昇らないが、墨を流したように黒々と横たわっていた目の前の海が、時間と共に徐々に濃い藍色から鮮やかな空色へと変化してゆくのがわかる。大気に漂う霞は穏やかな風と共に去り、やがて一体となった二つの混じり合う色を、「鏡ヶ浦」はその名の通り映しとっていた。
 かねてからの約束を守りたいと言って大貫が優樹と遼を外洋のトローリングに誘ってくれたため、金曜の夜から二人は田村と館山の大貫の自宅に泊まっていた。今朝は眠った気もしないくらい早くに起こされたが、一足先に起きた大貫が作った物であろう、クーラーボックスの上には既に船上で食べるための握り飯が用意してある。そう言えば田村は昨夜少しビールを飲んだが、飲むと朝起きられないと、大貫は一滴もアルコールを口にしていなかった。
 デッキの上、強い向かい風に肌寒さを感じた遼が身を震わせると、コクピットから出てきた大貫がパイル地のパーカーを手渡してくれた。
「今日は少し、沖の外洋まで出るつもりなんだ」
 クルーザーは既に埠頭を遠く離れ、内湾を抜けようとしている。空気を巻き込んだ美しい波線を後方に引いてスピードが増してくると、舞い上がる水しぶきが朝日にダイヤモンドのように輝いた。
 優樹は一人舳先に立ち、ハンドレールにつかまって気持ちよさそうに海風を受けている。その凛とした横顔と日に焼けた肩がやけに眩しい。
「何だよ、人のことじろじろ見て」
 視線に気付いた優樹の問いに、遼は笑い返した。
「そんな格好で、よく平気だなって呆れてたのさ」
 いくらこの地方が温暖な気候に恵まれてるとはいえ、今の時期、海の上でタンクトップとトランクスだけの姿は確かに寒々しいといえるだろう。
「ええっ? おまえ寒いのか! 軟弱なヤツだなぁ」
「君とは違うよ」
 遼は優樹の嫌味を軽くいなす。
「こら、優樹! おまえまさかその格好で泳ぐつもりじゃないだろうな」
 後方デッキで釣り竿の組み立てをしていた田村が首を出して大声で叫んだが、優樹は敢えて聞こえないふりをしてコクピットの大貫をのぞき込んだ。
「大貫さん、そろそろ止めてくれよ」
 大貫も心得たとばかりにエンジンを止める。
「あっ、おいっ! 優樹! ポイントはまだ先だって……」
 田村の制止の声を振り切り、優樹は洋上に身を躍らせた。
「まったく、困ったヤツだな……。船から離れるんじゃないぞ!」
 口では不満を漏らしても、波間に水しぶきをたてる優樹の姿を田村は嬉しそうに目で追っている。
「それにしても、優樹君には驚かされるな」
 コクピットから大貫も出てきて、遼の横に立ち海上を眺めた。
「そうですね、本当に……。この時期外洋で泳ぐなんて、彼ぐらいだと思いますよ」
「いや、違うんだよ。田村が釣りをする予定のポイントはもう少し先なんだが実はそこは潮の流れが速くてね、もし泳ごうとするのであればこの場所が一番いいのさ。だから私も船を止めたんだが……。優樹君は海流が読めるかな? とても偶然とは思えない」
 遼の鼓動が、大貫の言葉で早くなる。
(何だろう? この得体の知れない胸騒ぎは……)
 それは遼が、あの石膏像を見つけた夜に感じたものと似ていた。優樹のカンの良さに対する不安。答えを求めることが躊躇われる疑問……。
「もしかして優樹君は、海神の申し子かもしれないなぁ」
 ただ、冗談めかして言った大貫の言葉だった。しかし遼の心臓はびくり、と、反応した。
『この世の全ては必然から導きだされたものであり、そこに偶然の要因は存在しない』
 誰かがそう言ったのを覚えている。いつのことだったのか? 誰の言葉だったのか? 大事な人から伝えられた言葉だった気がするのに、思い出すことが出来ない。
『この宇宙に存在する自分自身も、経験する全てのことも、目的があって成り立っている』
 目的。理由。今までの一連の出来事が何かに繋がっている。姉を殺した犯人を見つけることの他に、いったい何があるのだろうか? そしてなぜ、今その言葉が頭に浮かんできたのだろう? 
「どうした? 浮かない顔をして。まだ悩んでる事でもあるのか?」
 心配そうに顔を覗き込んだ大貫に、遼は笑顔を返した。
「あっ、いいえ何でもないんです」
「そうか、それならいいが……おまえが優樹君と、また以前のように付き合えるようになった事を田村はすごく喜んでいたよ。むしろ前よりお互い踏み込んで話せる仲になったようだな、良いことだ」
 遼は少し恥ずかしそうに俯く。
「田村さんに言われたんです。目に見えるものだけが真実じゃない、他人を理解できると思うことは傲慢だと。優樹を、一人の人間として信じて受け入れることが大事なんだって……」
「田村が、そう言ったのか?」
 大貫は目を細めて後方の田村を見やる。
「遼、おまえはいつだったか私と田村のようになりたいと言った事があったな? 全てに対等で信頼しあえる仲が羨ましいとも。だが私からすれば、この先いくらでもやり直すことが出来る君たちの方が、羨ましいんだよ」
 そう言った大貫の笑顔が、心なしか一瞬寂しそうに見えたのは気のせいだったのか? それがどういう意味なのか、その時遼は聞くことが出来なかった。
「さあ、田村がしびれを切らす前にポイントに向かおう。優樹君を呼んでくれるかい?」
「あっ、はいっ!」
 大貫はコクピットに滑り込み、遼は舳先から優樹の姿を探した。かろうじて声の届くところに水しぶきを見つけ、呼び掛けようとしたその時。
 突然海上から、四本の水柱が突き上がった。それは巨大な蛇のように姿を変え、のたうちながら優樹の身体を絡め取り、海の底に引き込もうとしている。
「優樹っ!」
 悲鳴にも似た遼の声に、大貫がコクピットから飛び出してきた。不測の事態を察知した田村も駆けつける。
「どうしたっ!」
「叔父さん、優樹がっ! 優樹が引きずり込まれる!」
 一瞬、優樹の身体は高く持ち上げられ、勢いよく海中に没した。何かに掴み取られたように、深く沈んでいく。
「田村、頼むっ!」
 大貫は大声で叫び、ポロシャツを脱ぎ捨てると優樹に向かって甲板を蹴った。鮮やかに水をかき、優樹が姿を消した場所で深く潜水する。心得て田村は船を操り近くに寄せ、救命浮環を放った。
「優樹!」
「大丈夫だ、大貫に任せろ。あいつは優秀なライフセイバーだ、必ず優樹を連れて帰る」
 でも、と、言いかけて遼は言葉を飲んだ。いくら大貫が優れたライフセイバーだとしても、優樹を取り巻く力に太刀打ちすることなど無理なのではないか? 正体の知れないおぞましい力が、優樹だけでなく大貫までも捕らえて、海底へ深く引きずり込んでいってしまいそうな気がした。
 艇を叩く水音の中から、遼には声が聞こえた。
『欲しい……欲しいぃぞうぅ! よこせえぇっ……!よこせえっ!』
 低く、不気味な声だ。海底の深層から、細かい泡に乗ってそれは水面へと浮上してくる。
『せくぞおぉおぉ……! せくぞおぉうぅ……!』
 パーカーを脱ぎ、遼はデッキから身を乗り出した。
「優樹は渡さない!」
 田村が慌てて遼を背後から抱きとめる。
「いかん、遼君! 君が行っても役には立てん!」
「でも田村さん、優樹は……僕が行かないと優樹は……!」
 二人の姿は海面に上がってこない。
「優樹いっ!」
 思いの丈を込めて、遼は叫んだ。

 何が起きたのか、優樹には全くわからなかった。沖で泳ぐのは今日が初めてではない。自分にはこの海域が、潮の流れもなく穏やかで安全だという確信があった。水温も、近くを流れる黒潮の関係で比較的暖かく、身体的に異常をきたす要因など何もないはずなのだ。
 しかし突然、まるで背後から誰かに抱きすくめられたように身体の自由が利かなくなった。腕は水をかくことが出来ず、足は金縛りにあったように感覚がない。そして水に絡め取られた身体は、恐ろしいほどの早さで海底へと引きずり込まれていく。
 深く、深く、どこまでも深い海の底へ。恐ろしい水圧が肋骨を軋ませ、内蔵が逆流しそうになる。こらえる喉から口腔内へと、生々しい血の味が広がった。
 激しい耳鳴りの中、意識がかすみ遠のいてゆく。その時ふっと、脳裏に今は亡き父親の姿が浮かんだ。
(親父……。俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ!)
『優樹っ!』
 確かにその時、遼の声が聞こえたのだ。すると突然、身体は自由を取り戻し、優樹は思い切り上に向かって両手で水をかいた。
 ぐんぐんと、自分でも信じられないほどの早さで海上へと上がっていくと、ゆらゆら微かに瞬いていた薄明かりが徐々に輝きを増してくる。だがさすがに息が続かなくなり、堪えきれなくなったところで誰かに腕を掴まれた。ぼんやりとした意識で見たその顔は、優樹を追って深く潜水してきた大貫だった……。

 田村に肩を抑えられ、祈るような気持ちで海面を睨んでいた遼は、水のうねりに小さく波立つ気泡を目敏く見つけた。すぐにその中から大貫と優樹の姿が浮かび上がる。救命浮環を捕らえた大貫を、田村が満身の力を込めて引き寄せた。
 先に船上に引き上げられた優樹は、激しく咳き込んではいたが意識ははっきりしているようだった。その様子に遼はほっと胸をなで下ろす。
「どうやら救命手当ては必要ないようだな……」
 田村も大きく安堵の息をもらした。毛布を取りに行った大貫が戻って来て、困惑の表情を浮かべる。
「それにしても、優樹君が溺れるとは……。一体どうしたんだ? 痙攣か? 気分が悪くなったのか? どちらにせよ、すぐに帰ってちゃんと病院で診てもらわなければ」
「……すみません、迷惑かけてしまって。俺にもわかんないんだ、急に体が利かなくなって、まるで……」
 続く言葉を、優樹は言い淀んだ。だが、その理由を遼は知っている。何かに引きずり込まれたなどと、言える訳がないのだ。おそらくあの水柱の化け物が見えたのは遼だけで、田村にも大貫にも見えてはいない。引き込まれた力を感じたのも、優樹自身だけだ。正直に話しても信じてもらえるはずもなく、痙攣で体が利かなくなったのだと言われるだろう。
「とにかく、大事に至らなくてよかったよ。優樹に何かあったら、亡くなったお父さんに申し訳ないからな」
 田村は、少し涙ぐんでいるように見えた。優樹が申し訳なさそうに顔を俯けると、大貫が励ますように肩を叩く。
「釣りはまた仕切直しだ。港に帰ったら私が病院まで送ろう、先に無線で連絡を取っておくよ」
「ありがとう、直人」
 田村の感謝の言葉に、大貫は笑顔で頷いた。

 港に進路をとったクルーザーの後方デッキで、毛布にくるまった優樹は意気消沈の面持ちだった。遼は田村から温かい紅茶をもらって、その横に腰掛ける。
「良かった、無事に帰ってこれて……」
「……ああ」
 俯いたまま、優樹は無愛想に返事を返した。
「僕は……もしかしたら君が、このまま帰らないんじゃないかって怖かった……」
「馬鹿だなぁ……縁起でもないこと言うなよ、俺は大丈夫さ。でも……」
 優樹は少し口ごもったが、顔を上げると遼を真摯な瞳で見つめた。
「実は俺も、もうダメだと思った……。信じられないかも知れねぇけど、誰かが俺の背中に張り付いて、もの凄い力で身体を海の底に引きずり込もうとしたんだ。幽霊だと思うか? おまえ」
「幽霊……か、どうかはわからないけど、何かが君を掴んで海底に引き込もうとしているのが僕にも見えた。あれは、いったい何だったんだろう?」
 二人は無言で海面を眺める。陽光に眩しく輝くそこには、彼等の見た不気味で恐ろしい影は今や微塵もない。
「あの…さ、俺、聞こえたんだ」
「えっ? 何が?」
 遼は、海底から浮かび上がる奇怪な声を思い出した。優樹にもあの声が聞こえたのだろうか? あの声の主が、海底に連れ去ろうとした者の正体なのだろうか? しかし、それは何だろう?
「苦しくて、もうダメだと諦めかけた。でも、死ぬもんかって思ったときに、おまえが俺の名を呼ぶのが聞こえたんだ。そしたら急に身体が動くようになった」
「あっ……」
 あのとき夢中で叫んだことを思い出し、遼は赤面する。
「……ありがとう、おまえのおかげで助かったんだと思う」
 照れたように笑う優樹を、思わず遼は抱きしめた。ただ、嬉しくて涙が出そうになる。
「良かった、優樹。帰ってきてくれて……本当に良かった」
「なっ、何だよ抱きつくなよ! ったく、大袈裟なヤツだな」
 そう言いながらも、優樹は遼を引き離そうとはしなかった。


 大貫が手を回してくれたおかげで、土曜日にもかかわらず優樹は大手の病院で直ぐにきちんとした診察を受けることが出来た。しかし、深い水深に長くいたとはとても思えないほど身体に何も異常はなく、診察した医者も驚いていたようだった。
 『バウスピリット』から田村の車を店の者に頼んで持ってきてもらい、優樹は病院からそのまま『ゆりあらす』まで帰ることになった。大貫は遼を館山の実家まで送り届け、秋本家の夕食の誘いを「仕事があるから」と、丁重に辞退して会社に車を向ける。時間は既に夕方に近く、朝からの忙しさで大貫も、かなり疲労感を感じていた。
 戻る時間を伝えるため『バウスピリット』に携帯から連絡を入れると、電話を受けた女子社員に、来客が帰りを待っていると告げられた。しかし大貫には思い当たる人物がいない。
「今日、誰かと会う約束はなかったはずだが? 私は少し疲れていてね、出来ればお引き取り願いたいが……」
 その時脳裏に、以前訪ねてきた若い刑事の顔が浮かび思い直す。
「その方のお名前は? もしかして警察の方かな?」
「……申し訳ありません。応対は別の者がしたので私はお名前を伺っていないのですが、学生の方のようです。お引き取り、願いますか?」
 しばらく、彼は頭を巡らせたが、
「いや、会おう」
 そう言って、電話を切った。